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ボタニカル哲学(菜根譚)

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菜根譚は、今から約400年前の中国において、内乱や政争が相次ぎ混迷を極めた明代末期、万歴帝の時代(1572-1620)「厳しい時代の中でどう生きるのか」をテーマに、中国明時代の哲…
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#人間関係

ボタニカル哲学(後集133)知足の人生

お茶は極上品を求めなければ、茶壷が空になることはない。 酒は極上品を求めなければ、酒樽が…

力蔵
1年前
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ボタニカル哲学(後集132)難しい心の調整

四季が巡らせる寒さ暑さは簡単に避けることが出来るが、人の世の熱さ冷たさは無くす事は難しい…

力蔵
1年前
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ボタニカル哲学(後集131)すべて「減らす」人生

人生というものは、何かを少し減らせば、少しだけ何かを越えてゆける。 もし付き合いごとを減…

力蔵
1年前
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ボタニカル哲学(後集130)一歩離れて冷静に判断する

逆巻く波が天のよう覆い被さってしまえば、舟に乗っている人は怖さを感じないが、外で見ている…

力蔵
1年前
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ボタニカル哲学(後集129)寺院に群がる人

多情な女性は、一途に思った挙句尼僧となり、のぼせやすい男は激しく思いつめて仏道に入る。元…

力蔵
1年前
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ボタニカル哲学(後集128)無事の徳

何か一つ出来事があれば、一つの弊害が生れる。だから、この世は、何事も起きないことを良しと…

力蔵
1年前
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ボタニカル哲学(後集127)人の一生は操り芝居

この世に今生きている人間は、元来、一体のあやつり人形のようなものだ。 だからこそ、その根元は自分で握っている必要があるのだ。糸の一本も乱さず、自由自在に巻いては伸ばしていれば、全ては自分の意志次第となる。 他人の干渉を少しも受けなければ、操り人形として動く舞台を抜け出せるだろう。 つまり、社会的なマインドコントロールを受けている客体的、受動的な俗人は、見えない糸に踊らされ、自分の人生を実現できないが、主体的で、能動的な達人は操り人形ではなく、正に本来の自分を実現している人間

ボタニカル哲学(後集126)天の誘惑、世間の陥穽

分不相応な幸福や理由も無く手に入った物は、造物者が人を釣上げる餌でなければ、人の世に仕掛…

力蔵
1年前
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ボタニカル哲学(後集125)隠士田父の清心

山林で隠遁生活をしている者は、清貧であっても俗世間を超えた豊かさがあり、田畑で働く農夫は…

力蔵
1年前
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ボタニカル哲学(後集124)風流に流されない

花を植え竹を育て、鶴を飼い慣らし魚を鑑賞するにも、何かの気付きが無ければならない。もし、…

力蔵
1年前
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ボタニカル哲学(後集123)人間性を汚すもの

山菜は人の世話を受けないで育ち、野性の生き物も人の世話を受けずに育ち、其々の味は風味があ…

力蔵
1年前
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ボタニカル哲学(後集122)花の見ごろ、酒の酔い加減

花は五分咲きを観て、酒はほろ酔い程度に飲む。このような状態がこの上なく素晴らしいのだ。も…

力蔵
1年前
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ボタニカル哲学(後集121)塵世苦海は心の持ち方から

世間の人々は名誉や利益を求める事に心が縛られ、ともすれば、この世は汚れて苦労の多いところ…

力蔵
1年前
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ボタニカル哲学(後集120)自他の区別を忘れる

耳の機能は、つむじ風が谷を廻る音に似て、音が止んでしまえば、良し悪しは無くなる。心と対象となる現象の関係は、月が池に映っている状態に似て、実態でない「空」という状態を認識して執着を捨てれば、物と心という対立関係は無くなってします。 つまり、この世の全ては現象であり実態ではない。言換えれば物も心も同根であり、心身一如であるから、そこには対立関係は存在しないのである。 言換えれば、達人は大自然の原理原則は、無対立、無犠牲、循環慣性であることを悟っていなければならない。