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山田詠美の「才能」とは
「でも、それは、その人のうちに、まだ眠っている原石があればの話だ。悲しいことに創作という分野では、「才能」という正しい不公平が歴然としてある。」
今日の毎日新聞「私のことだま漂流記」には山田さんが考える「才能」についてわかる文章があった。「正しい不公平」、それが「才能」なのだ。
才能、特に天才という言葉は、わたしはあまり好きではないが、人は皆、違う何かを持っているというのは、そうかもしれない。
「いや、凄まじい努力の末に、才能に似たものは作り出せるかもしれない。けれど、そこに、才能が与える最後のきらめきは望めないだろう。」
ん…「才能が与える最後のきらめき」か、いい言葉だ。が、なかなか厳しい。
「努力に値するもの、というのもそれはそれで素晴らしいとも言えるのだが、その「その素晴らしさ」と作品の「素晴らしさ」は違う」と、とどめを刺す。
さて、「天才」と言えば、モーツァルトを引き合いに出す人が多い。彼こそ真の天才だと。そして、彼の人格と作品とは何の関係もないと。
だが、私は彼の人格と作品とは関係があると思っている。彼の人生と作品とは関係がある。
関係はあるが、作品の素晴らしさは、その人格や、人生の素晴らしさとは、きっと違うのだろう。
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