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生と死について

 私は生と死について考える時、無意識のうちに仏教的な考え方に基づいて思考している。これは家のしきたりというか習慣で小学生の頃から中学生の間にかけて毎日お経を上げるという経験の影響だと思われる。自慢といえるかどうか分からないが、今でも般若心経は全文諳んじることができる。それほどお経が身体に馴染んているのだ。唱えていたお経は日本語のもののほかに、パーリ語のものを日本語のカタカナの音声に直したものを唱えていた。当時は意味もわからないまま、ひたすらお経を唱え続けていた。何度も何度も唱えることで、自分の発した音が頭の中で反響して何重にも増幅されて聞こえてくる。

 今では20歳を迎え、大学生になり、その当時より多少なりとも知識も増えたのもあり、あの当時唱えていたお経がどんな意味を持っていたのかも感覚的にわかったような気がする。ただ、残念ながらそれを自分の言葉で言語化するにはまだ至れていない。その中でも私が個人的に仏教のエッセンスだと考えている一節がある。「色即是空 空即是色」である。私の死生観はこの言葉に依るところが非常に多いように思う。簡単に言えば空とは無であり、色とは有であると解釈することができる。そして、無が即ち有であり、有が即ち無ということになる。無は有であると言った後にすぐさま有が無であると言い切っている。一見すると論理的に矛盾しているが、ここに仏教的考え方の神髄があると思う。無と有、対立する二つの概念を相互に包括することによって無でもなく有でもない、そして無でもあり有でもあるとして物事を捉えることができるようになる。これが西洋的な二項対立とは異なる東洋的な論理、テトラレンマと呼ばれるものである。

 以上を踏まえて生と死について考えると、生とは死であり、死とは生であるということになる。「生即是死 死即是生」。つまりは生も死も初めからないということだ。生と死を分けて考えると、生きている状態と死んでいる状態の二つがあって、人間はそのどちらかに属しているように考えられるが、そうではなく、生と死を包含する根本的な源のようなものがあってそれが状況に応じて生になったり死になったりする。生と死は繋がっていて、連鎖、循環する。ちょうど円環のようなイメージだ。生と死とは魂の状態であり、魂単体で遊離している状態が死、魂が肉体という器に納まっている時が生というような具合だ。だから死とは恐ろしいものではないのだと思う。私たちが恐れているのは死そのものではなく、死によって大切な人と言葉を交わすことができなくなってしまうことだ。死とは悲しいマイナスなイメージがあるが、私は死そのものを肯定的に捉えている。生というステージを終えて死に移行する。そしてまた、死というステージを終え生に還ってくる。この繰り返しが輪廻転生であり、生と死の関係性だ。言葉にすることが非常に難しいが、生と死とはこういうものだと今のところ私は考えている。

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