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もうすぐお盆だから、祖先の話を③祖父の物語

ご訪問ありがとうございます。まだお喋りはほんの少しな2歳半息子と4ヶ月の娘を子育て中のリケジョママです。

普段は発達障害や子育てのことを主に書いている私ですが、お盆直前の今は、少しばかり脱線して祖先の話を連載しています。

きっかけは私の父が、自分のルーツを知っておくのは大事だと、急に祖先の話を一通り教えてくれたことです。

前回までが祖母の物語、今回からは祖父の物語です。といっても、祖父はまだ98歳で生きています!

祖先は丹波篠山

祖父方は家系図がしっかり残っていて、祖父の祖父まで遡れます。江戸時代の終わりか明治の初め頃、大阪に出てきて和義呉服店という呉服屋さんをやっていた家だとか。

しばらく商売は上手くいっていたそうですが、不景気でガタガタに。そうこうしているうちに、お父さんが亡くなってしまったとか。この時、祖父はまだ3歳。

別荘のあった兵庫県芦屋へ引っ越し、祖父はそこで伸び伸び育ったようです。

戦争中は遊んでいただけ

戦争末期の頃、祖父は大学生?くらい。理系だったため、前線には配属されず栃木県宇都宮市で風船爆弾を作っていたそうです。

その頃の話は私もよく子供の頃聞いていましたが、祖父はいつも「僕は落花生食べて遊んでいただけ」と言っていました。

恐らく、周りにはもっともっと大変な想いをしている人がいる中、自分の大変さなんてなんてことない、という意味でそう言っていたのではないか、と大人になった今は思います。

風船爆弾を作っていたのですから、軍に徴収されたということ。少なからず大変なこともあったとは思うのです。

終戦後

そのまま宇都宮の軍工場で終戦を迎えた祖父。たまたま、西の方面へ行くトラックに声をかけてもらって、荷台に乗って芦屋の自宅まで戻ったそう。

しかも、軍には当時素晴らしく貴重なお米がありましたから、そのお米までお裾分けしてもらったんだとか。容量の良い祖父です笑

そんな祖父、建築家として働いたため、つい最近まで祖父が設計した建物が残っていました。最近の再開発でとうとうなくなってしまいましたが。

ということで、私のルーツの話はここで終わりにします。

自分の子どもに語り継ぐためにもメモとしてnoteに残させて頂きました。最後までお付き合い、ありがとうございます。

次回からは、いつも通り、子育てのことや、発達障害のことなどの記事に戻ります。

どうぞよしなに。

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