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もうすぐお盆だから、祖先のことを。戦争前〜戦争勃発まで

ご訪問ありがとうございます。まだお喋りはほんの少しな2歳半息子と4ヶ月の娘を子育て中のリケジョママです。

私の父が、自分のルーツを知っておくのは大事だと、急に祖先の話を一通り教えてくれました。

去年、余命宣告された父なので自分が亡くなる前に娘に伝えたかった、という想いもあるのでしょう(ちなみに、父は治療が功を奏し、割と元気)

父の想いを汲み取り、自分の子どもたちに伝えていくためにメモさせてください。

第二次世界大戦の話が多く、ネット上に書き残すことは多少なりとも”戦争を語り継ぐ”ことに貢献できるのでは、という想いもあります。

祖母の生まれ

まずは、私の祖母の話。祖母は4人兄妹の3番目。お兄さんとお姉さん、弟さんがいらっしゃったとか。

鎌倉の長谷駅近くの家で生まれたそうですが、祖先は栃木県足利の名草。

父の子どもの頃はまだ親戚が住んでいたそうで、東武の特急に乗って名草まで遊びに行ったこともあるそう。

祖母の父は、横浜の関内付近?で岩上商店という屋号でアメリカと貿易をしていたそう。

戦争の影

昭和15年〜16年、少しずつアメリカと日本の間に不穏な空気が立ち込める中でもサンフランシスコへ船に乗って商談へ行き、アメリカ人に歓迎され、商談もまとまったため、

アメリカ人は日本に対して憎しみも持っていないし、戦争になんかなりっこない。

と言っていた数ヶ月後に、日本が真珠湾攻撃をして戦争が始まってしまったんだとか。

もちろん、アメリカとの貿易を主な商売としていた岩上商店は大打撃。そんな矢先に祖母の父は風邪を拗らせ、あっという間に亡くなってしまったそう。

きっと今だったら抗生物質を飲んで助かったのではないかと想像できます。

岩上商店は親戚に引き継がれ、少なくとも昭和50年ごろまでは存続していたとか。父によれば、もしかしたらまだ遠い親戚がやっているかもしれない、とのことでした。

お姉さんも

お父さんが先か、お姉さんが先かは分かりませんが、お姉さんも同じ頃、中耳炎を拗らせて亡くなってしまったとか。

まだ20歳前後の若い時だったそうです。

本当に、現在では当たり前のように抗生物質が飲めることだけでも、ありがたいことなのだと、再確認ですね。

今日はこの辺まで。次回は、戦争が祖母の住んでいる鎌倉のすぐ近く横浜や東京まで差し迫ってきたところらへんから書きます。

どうぞよしなに。

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