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海がない街で育った私は、ものづくりの海の目の前にいた。

「なぜあなたはモノを作るんですか?」

以前そんなことをある人に聞かれた。その時はぜんぜん答えられなかった。考えたこともなかった。

栃木県の片田舎で生まれた私。小さい頃からた当たり前に作ってきた。幼稚園でトンカチをとんとんと木片に打ち付けて形を作ったのが楽しかったのを今でも覚えている。小学生のころはテディベア作りにハマり、大きいのから小さいのまでいろいろ作った。

思えば、私は物づくりに助けられてきた。小1からスイミングに通っていたのだけれど、小児喘息の治療の一環で通っていたので、泳ぐのはたいして好きじゃなかった。でもそのあと、近くの父方のおばあちゃんの家に行って、ブローチの作り方を教えてもらうのが好きだったので、サボらず通えた。その甲斐あってか、喘息は中学校に上がるまでに完治した。おばあちゃんのブローチ作りセットは形見として私がもらった。

ピアノ教室でも同じようなことがあった。お姉ちゃんのまねをして始めたピアノだったけれど、途中から練習が苦痛になってしまった。それでも意地なのか通うのをやめなかったけれど、楽しくはなくなっていた。ピアノの先生もものづくりが好きで、なんでだかわすれたけどピアノのレッスンの時間に籠の編み方を教えてくれた。レッスンの半分くらいかご作りでうまくいかないところの相談をしていた。なんなら途中から籠作るために通ってた。(そこまでいやならやめればよかったのに。)

退屈な時間があると、小さい鶴を折り紙で折っていた。普通の折り紙でおった鶴から、どこまで小さく作れるかというチャレンジをした。今思えば一人っ子でもないのに、一人遊びが得意な子供だったな。

中学校では、先生に無理を言って選択科目で美術と音楽の両方を1時間ずつ取らせてもらって、絵画と音楽に時間が許す限り没頭した。

高校・大学では、「もの」づくりだけでは飽き足らず、音楽や映像づくりにものめり込んでいった。


そんなものづくりとともに生きてきた私だが、一時、なにも作る気力がなくなってしまった時期があった。大学院の博士後期課程に進んだ頃のことだ。研究が思うように進まなかったことに加え、他の仕事も引き受けすぎて2ヶ月くらいほぼ休みがなかった。「自分はタフだ」と豪語していた私も、流石につかれていたのだろう。突然糸がぷっつりするように、気力がなくなってしまった。

そのとき、本当に何も生み出せなかった。幼稚園では木工、小学校ではテディベアやブローチ、中学校では絵画、高校と大学では音楽と映像と、これまでそれぞれものは違えど「ものづくり」を続けてきたこの私が。結構ショックだった。大学院やめようかと思うくらい思い詰めていた。

それからなんとか復活したときに出会ったのが「科学アクセサリー」だった。いや大学生のときもベンゼン環(⌬)のネックレスがあることを知り興奮したモノだけれど、それを再度思い出したのがこの時期だ。サイエンスアゴラで確か分子模型のアクセサリーをみたんだ。


「あーそういえば昔構造式アクセサリー好きだったなあ。けど物理のやつってあんまないかも。作ってみたいなあ。」

この頃から創作意欲が戻ってきた。自分のイメージしたものをイメージ通りに作りたい。その執念はもともと強かった。それから紆余曲折あり、(近いうち書く)たくさんの人の支援があって、望むモノを作ることができたのだ。

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そしてこのネックレスをひっさげて、この冬、個人事業主として開業するまでに至った。

物づくりの意欲が戻って、このネックレスやレジン作品を作っている時、しみじみと、

ああ、私生きてるなあ・・・

と思った。

そうか、私のものづくりは「生きがい」とも呼べるモノなんだとその時思った。作らずにはいられない、作りたい、と思ったモノを残らず作ってから死にたい。それは一つの夢のようなものかもしれない。

「なぜつくるのか?」

と問われたら、今は「生きがいだから」と答えるだろう。

     * * *

今日、友人から勧められて「海が走るエンドロール」という漫画を読んだ。65歳のうみ子さんが芸大生のカイ君に偶然出会い、映画を撮り始める、というストーリーだ。うみ子さんが映画を撮りたい、と思うようになったきっかけは、カイ君のこの一言だった。

「うみ子さんさぁ、こっち(映画作りたい)側なんじゃないの?」
「そんな人間はさ 今からだって死ぬ気で 映画作った方がいいよ」

「こっち側」についてうみ子さんはのちにこのように語る。

「作る人と作らない人の境界線てなんだろう」
「船を出すかどうか・・・だと私は思う」(中略)「誰でも船は出せる」「私はあの日 目の前に海があることに気づいた」

私は、小さい頃から「目の前に海があること」を知っていたのだ。船も、船を漕ぐためのオールも、いろんな人がくれていた。ものが作れるということを知っている、その方法を知っている、というのは船とオールが用意された波打ち際でちゃぷちゃぷしているようなもので、「さあ作ろう」と船を漕ぎ出すのは簡単だ。「作る人」が周りにいて、作ることが当たり前だった環境は、少なからず私のものづくりに影響している。

「なんで作るのか?」の答えは一応見つかったが、「なんでものづくりが好きなんですか?」と聞かれたら、これまた返答にこまる。山に登る人なら「そこに山があるからだ」と答えるかもしれない。

ものづくりを海に漕ぎ出す船に例えるならば、その海の向こうに何があるのかを知りたいからかもしれない。作りたいモノを作りたいときに作っている。その先に何があるのか。そういう未知のものに対するワクワク感が私を突き動かすのかもしれない。

海なし県で育った私だけれど、ものづくりの波打ち際で生まれていて、とっくに船を漕ぎ出していたのだ。

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