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りせっと

これどうぞ、と街頭でティシューを渡されたり、デパ地下などで試食を勧められたりする。わたしには必要ないが、相手が出してくれたものを断るのは悪いと思ってしまうのは、やっぱりおばあちゃんの呪文かもしれない。

こうして考えてみると、わたしは呪文や呪縛に囚われているのだな。
「もったいないから…」「ご好意を粗末にしては…」「相手が目上だから…」
礼節を尽くし、倹約し、ものを大事に扱う。言葉は美しいが、鵜呑みにして良いものだろうか。

時には小言として、または処世術として授かった言葉もある。
「あなたは女の子だから」「女の子がみっともない」「女の子は素直がいちばんね」「いつもニコニコしていなさい」「でしゃばっちゃダメよ」「わがままを言っちゃダメ」「女の子は勉強ができなくてもいいのよ」「男の人と歩くときは、3歩下がるのよ」

弟はどうだったかと思い出す。
「男の子はすぐに泣いたりしないの」「男の子だったら一度決めたらやり通さなくちゃね」「男の子はベラベラおしゃべりしないものよ」「がんばりなさい」「立派な大人にならないとね」

はー。おばあちゃん。いつも優しくて私たちを可愛がってくれて、大好きだったけど、ジェンダーバイアスをガンガンかけていたのは間違いない。

責めることもできない。彼女こそ今よりも男女差別のきつい時代を生きてきたからだ。男性と女性は食事の場所も違う。食事もお風呂も、なにもかも男性の後でないと許されなかった。「おんな子ども」と庇護される代わりに軽く扱われ、高校や大学に進学すると「女だてらに」と言われ、二十歳前後で結婚しないと「行き遅れ」とか「片付かない」と言われて厄介者扱い。結婚したらしたで、アウェイである夫の家に入り、家族になった人たちに気を遣い、その家の流儀に従わねば叱られる。

そういう人生で「失敗」と捉えてきたことを、わたしたちに同じ轍を踏ませないために、予防策としてあれこれ言い募ったのだ。

子どもの頃、いつもおばあちゃんと一緒にお風呂に入っていた。ある時、わたしがお湯の入った洗面器に石鹸を落としてしまったが、そのままにして体を洗っていたら、おばあちゃんが「そんなことをしたら石鹸がすぐに溶けてしまうよ。お嫁に行ったら、お姑さんに見られて『うちの嫁は無駄遣いだ』って叱られて、近所に言われるよ」と言った。なんですと!と、その時は思わなかった。小学生のわたしは「なんかやだな」とは思ったが、全く現実味のない話だったので、軽く流していた。が、今でも覚えているということは、おばあちゃんの「教え」として刷り込まれていたのだと思う。

今はどうだろう。まず、お姑さんと一緒にお風呂には入らない。石鹸が溶けたらもったいないとは思うが、そこまで長い時間ではないので、溶けてなくなることはない。100歩譲ってお姑さんがそれを目撃していたとして、なぜそれを近所で流布するのか。意味がわからん。

今考えたら、おばあちゃんも同じような「嫌な目」にあっていたのだろう。女性だからと我慢したこともたくさんあっただろう。しかし、時代はそれが「当たり前」だったので、疑問を持たなかった。コミュニティの中で女性として生きるとは、こういうものなのだと受け入れていたのだ。

しんどかっただろう。おばあちゃん、わたしはここで食い止めるよ。そんなこと、ムスメには言わないよ。


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