めいめい
先々月、突然母が「これ、あんたに渡しとく」といって、小箱をくれた。なんだろうかと表書を見たら「寿」の文字。臍帯、つまり「へその緒」である。蓋を開けると、中には茶色に干からびた肉片(としか言いようがない)が綿に包まれて入っていた。体の一部を取っておくのは、ちょっとミイラっぽい、と思った。
そして、箱の底を見てびっくり。父と母の名前と年齢、わたしが生まれた日時、出生地の住所、取り上げてくれた助産師さんの名前まで記入欄があり、手書きで書き込まれていた。筆跡は、父のものでも母のものでもなさそうだ。助産院の人が書いたのだろう。ただ、わたしの名前はなかった。多くの人がそうであるように、わたしも生まれた時は、まだ名前がなかったのだ。
小学生の時「自分の名前に込められた意味を知ろう」みたいな宿題があって、わたしは帰宅すると祖母に尋ねた。「わたしの名前はどういう意味?」すると祖母は「お母さんに聞きなさい」と言い、母に聞くと「お父さんに聞きなさい」と答えた。父に聞くと「姓名判断で画数を見て決めた」と言い、名前の意味や、そこに込められた思いのようなものは全く語ってはくれなかった。だから、自分の名前がいつまでもしっくりこなかった。
大人になって、ゴダイゴの「ビューティフルネーム」を聞いて泣いた。世界中の子どもたちの名前には、幸せになるようにと願いが込められているのだ。そう願わない親はいないだろう。どんな国で生まれ育っても、その子の名前には夢や希望や願いがある。うちの親は、そんな話はしてくれなかったが、あの歌を聴いて初めて、自分の名前をとても身近に感じたし、親の愛を感じた。
今日はわたしの誕生日だ。名前がまだなかった生まれる前から今日まで、そしてこれからもずっと、親から幸せを願われている。ありがたいことだ。
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