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比較しないと美しいと言えない愚劣な人間たちへ

私も経験あるが、多くの人も比較の対象として勝手に容姿の評価をつけられたことがあるだろう。

周りより太い細いだの、容姿が上中下やら。人によってはクラスの中で1番可愛いなどの言葉は褒め言葉に聞こえるのかもしれないが、私はそんな言葉選びしかできない輩を最低だと思う。決して美しい言葉ではない。

なぜ何かを伝えるとき、人と比較をしないと言葉を発することが出来ないのか。前提としてネガティブな評価をすることは決して良くないので割愛するが、仮に可愛いと伝えたい場合「貴方が可愛い」と相手に焦点を当てて言葉を展開すれば良いだけなのに、なぜ変な枕詞をつけるのか。

直接相手に褒め言葉を贈れば良いだけ。とてもシンプルなこと。だけどそれが出来ない人が多い。

恥ずかしいだの、照れ隠しなどいう人もいるかもしれないが、もし本当にそうなのであれば、その褒め言葉を発する精神年齢に達していないので、心が追いつくまで一生使わないで欲しいなと思う。とてもダサい。人の容姿を褒めなくたって世の中渡っていけるだろう。

とはいうものの、私自身もこの国で28年間生きてきているのでだいぶルッキズムに染まっている。それは自分自身に対してなのだが、やはり周りを見ると「痩せなきゃなあ」とか「鼻が高ければな」など色々思ってしまう。

何となくだが、その風潮がここ5〜10年くらいでより強くなった気がする。それを強く感じるのがSNS投稿や街中広告。整形などの宣伝が何気なく生きていても目に入ってくる。私はここ最近、それらの情報をみたあと自己肯定感が下がっていることに気付いたので、大好きだったSNSの多くを削除した。

話は変わるが、年末年始にロンドンを訪れた際わたしはこの街は居心地が良いなと思った。なぜなら、ファッションも過剰に気にならず、自分の体型も全く気にならなかったからだ。

具体的な理由は分からないが、様々な人種・体型の人がいて疎外感を感じなかったことが理由なのかなと何となく感じている。

だが、そう思っている時点で私もルッキズムにまんまと飲まれているのだ。どこにいても何に囲まれていても等身大の自分を認められる、これこそがルッキズムから足を洗った証拠になるのだろう。

この感覚はすぐに変えられるものではないと思うが、自分たちの発言は今からでも変えられる。
そもそも生まれ持ってきたものに対して話すのは批判意見が多くあるが、魅力に感じてどうしても伝えたいのであれば「あなたの◯◯良いですね」と、目の前の相手だけに触れるべきであろう。

その魅力的な言葉の先に、人生の広がりが待っているかもしれない。

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