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【025】TPOという魔法を使い分けられる人間界には、絶対のルールは存在しない

週に1回ー2回のペースで、パーソナルトレーニングに通って3年以上になります。正しい指導のもとに行う運動の効率のよさを、この歳にして初めて知りました。

さて、筋トレでは意図した筋肉を正しく使うことが大切です。
よって、トレーニング中にトレーナーさん(男)が腹筋やお尻の大臀筋などに直接触れて「正しく筋肉使えてますね」とか「ここにグッと力いれましょう」などの指導をしてくれます。いつものトレーニングの風景です。

でも、トレーニング中というTPOでなかったら?医療現場で医者が患者さんの患部に触れることも問題ないけれど、これが道端や電車の中だったら?との妄想が広がります。

「トレーニング中に私の身体にさわるんじゃないわよ!」ということではなくて。

これは、異性の身体に触れる行為単体には絶対的な意味がないということですよね。TPOによって、適した意味づけが与えられるだけで。普段無意識にやってることですが。

例えば牛や豚などの食用の動物を屠殺することを責める人はいないけど、ご近所で犬猫などを殺める人がいたら、猟奇事件で大騒ぎになる。殺生には変わりないのに。その他にも、温泉では真っ裸でも平気だけど、路上で真っ裸になるのは恥ずかしい(というか犯罪か)。羞恥心さえもTPOという社会的な規範で産み出すことができるのか…と思うと驚きです。今更ながら。

特定の条件下においてはNGなことも、他の条件下ではOKということならば、絶対的な価値基準は存在しないということになる。普遍だと思っていることは、すべて社会的に定義されたものでしかなく、その定義は可変です。

私たちが行動の指針にしている道徳観や倫理観も絶対的なものではなく、人間が生きていくために都合の良いように作られたということがわかります。自分たちが食べるための動物は殺していいなんて、その最たるもので。

例えば。
寿命が延伸しすぎた結果、尊厳死が一般化する可能性は高いと思います。未来の尊厳死の現場では「じゃ、一足お先に行ってきまーす」みたいな死に方が普通になっても、依然それ以外の場面では「自殺はダメ、絶対!」みたいに、死もTPOで使い分けするようになるのでしょう。人間はすでに死の意味を使い分けしてきた経験があるので、楽勝でしょうね。

今は倫理的に正と認識していることも、どこかで反転する可能性があると思うと、世の中のすべての当たり前は疑ってもいいんだよなと再認識したり。

…なんて妄想していないで、トレーニング中は筋肉に集中しなきゃだめなんですが。

写真=UAEの首都アブダビを象徴するランドマーク、シェイク・ザイード・グランド・モスクです。真っ白が太陽を照り返して神々しかった。宗教は人間が生きていくための知恵なんだろうな。(2022年5月撮影byじぶん)

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