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愛を乞う街

ある元女性タレントの結婚とか痴話げんか(結局離婚したらしい)とか、その前の様々なトラブルを見てて思う。
アダルトチルドレン(AC)だという人もいるけど、自分もそっち系の性格、生き方だったので、すごく気になってしまう。

ACの場合、小さいころ自分の存在を無条件に愛してくれる人がいなかったんだと言うけど、わたしの場合はそういう存在がいたと思う。というか思い出した時に自分がもらっていたものは愛だったと確信している、そういう存在の人がいた。それでも、反対に存在を否定する人がいて、一人でもそういう人が自分を、自分の存在を無条件に愛するっていうことを阻んでくるんじゃないかと思う。
受ける愛情って絡まっていて一方だけじゃないから、例えば、自分を攻撃してくる人を、自分を愛してくれている人がかばっていたり、愛していたり、それだって裏切りのような形で受け取ることもあるし、両親に愛されていることはわかっているけれど、その両親が憎みあっているとか、子供にとって、複雑な感情の交差を見ることもすごく影響が大きいんじゃないかと思う。

彼女のケースだって母親に愛されてたとか継父との確執とかいろいろ推測されているけど、そんな断片的な単純なものじゃないし人間関係やその中の感情って。愛する愛されるって言葉だって、漠然としていて誰も正解が分かっていない。
成長していく過程で、自分のそういった生い立ちや家族関係というものを整理して事実を客観的に受け止める時期が来る。それまではあまりにも感情的過ぎて目を向けられなかったことも、物理的な自立や離別で距離を取れば、冷静に見れる時間が取れる。そうしたときに自分なりに理解して答えを出して、じゃあ自分はこれからどう生きていくんだと自問して、そういった過去の痛みやトラウマから少しずつ自分自身を引き離していくんじゃないだろうか。
彼女が今どんな過程にいるのかはわからない。
自分自身の芯を失っているように傍からは見える。自分で立てないから相手に求めて、相手を支配しようとして、構ってほしくて苦しんでる。彼女が発信する内容や姿からはそう見える。
そういうタイプの女の子は、現在歌舞伎町界隈にたくさんいる。
異常にホストにハマる子、DV彼氏に捕まる子も、自分で立てていない子が多い。
自分で立つとは、経済的な自立だけでなくて、物事を客観視できるか、自分の存在を認めているか、とかまた自己肯定感という言葉に行き着いてしまって不本意なのだけど、現代の日本人の悩み、問題は多くがそこにあるのかもしれない。
愛情を持って育てられた、られなかったというが、与える側に愛情があったかよりも、受け取る側(子供)が愛を受け取ったか、そこから自尊心を学んだか(学ぶものなのか)それが大事なんじゃないだろうか。
いくら先生が漢字を100個生徒に教えても、その子が習得していなければ意味がないのと同じように。
愛情、愛って先に述べたようにあいまいな基準だから、与えたと言ってもその結果は受け取った側を見るしかない。
極論、愛の鞭と言って拳を振り下ろしていたかつての時代の父親から、本当に愛情を受けて育ちましたとどれくらいの子供が胸張って言うのだろう。
愛の鞭なんて存在しないのだから、そんなもんは美談に過ぎない。
暴力で与えるのは支配や恐怖であって愛ではない。
どこの誰が痛い思いをして、そこに深い慈悲を感じるのか。愛の鞭なんて与えた側の一方的なねじ曲がった理屈なのに、さらにそれを与えた側と同じように受け取るよう強要までしている。
話は逸れたけど、そんな風に子育てだって家庭だって、人間と人間の関係なのだから、そんな簡単に外側から判断するのは難しい。
好きとか嫌いとか愛してるとか憎いとか、そんな一単語で片づけられるものではない。
また話が飛ぶが、メキシコ人は家族の話が大好きだから、よく家族のことを聞かれるけど、わたしは彼らと同じ感覚でも考え方でもないから、彼らに聞かれるのも苦手だし、家族の話しをするのも苦手。どうせわたしの本当の気持ちには興味ないだろうから、彼らが欲しいだろう回答を口先で答えるだけ。

自分で立てない子が誰かや何か依存するのは、人間の本質として自然なことで、依存自体はいいとか悪いとかではなく、その度が過ぎて自分が破滅してしまうことが問題なのではないかと思う。
他人に頼りすぎていては相手は支えきれないで、去ってしまう。でも、きっと何が一番大切か、物事を論理的に客観的に見るのが苦手で感情で動いてしまうから、他の人から見ると矛盾しているような行動を取ってしまう。本当にほしいもの、必要なものがわからないから刹那的な欲求も無理もない。
そういった行動は、幼少期に受けた影響もあるかもしれない。
人に攻撃的になるのは自分に自信がないからで、今まで自信を与えてくれる人に出会えない人生を送ってきたからだ。ゼロだったわけじゃない、でも感じ取れなかった。先に述べたように環境は複雑だから、一言に愛情があったなかった、ゼロか百かだけでは判断できない。
誰か支えてくれる彼氏でもできれば…という人がいるけど、彼氏ができたら依存の対象が彼氏に移るだけで、根本的な問題の解決にはならない。
自分に足りないものを外に求めている限り同じループである。

人生に不可欠なものや、生きづらくない生き方は、学校の授業では教えてもらえない。だからと言って歌舞伎町でももらえない。
自分で気づくしか、他に誰も与えてくれない。
自分の人生は、周りに求めたもので形成されていくわけじゃない。
ほしくてたまらなかったものは、その人生に本当に必要なものだろうか。
本当は、自分でいくらでも作り出すことができて、自分自身が自分を幸せにすることはできないだろうか。

そんな小さな意識で、もう何百万も男の人に貢いだり、好きな人に暴力で支配されたり、怒ったり泣いたりしながら外に「愛」を求めなくて済むはずだ。

と私は散らかったこの文章を書きながら思う。
東京には(東京だけじゃないけど)親に捨てられ、拒絶され、家がなくて、愛情を知らずにたどり着いた歓楽街で、お金や心や自尊心をむしり取られながら自分を見失わないように、または見失いながら、必死に生きてる子供や若い女の子がたくさんいるんだといろんな動画を見て知った。
そうやって心をぐちゃぐちゃに踏まれながらそれでも必死に他人の、社会の言っていることを理解しようとしてる。付いて行こうとしてる。

悲しくて堪らなかった。

こんな日本が本当に発展した最先端の皆が憧れる国なのか、多くの疑問と鈍い悲しみが心に漂う。