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坂本龍一さんの「12」を聴いていて、ブレス音が消されることなく入っていることに驚いた。その驚きは人にしか作れないものについて考えるきっかけになった。

AIが日に日に進化を遂げ、今日のクリエイターやデザイナーの役割や今後の芸術表現について、嫌でも考えさせられる。
決して技術を否定しているわけではない。
正しく使えばより豊かに文化を耕していくことができるだろうと思う。

しかし、彼ら(AI)に作れなくて、私たち人だからこそ生み出せる価値や、人じゃなきゃ生み出せないクリエイティブは同時に考えていく必要があると思う。

ブレス音を聴いて、生っぽさとか、身体があるからこそ生まれる間(ま)だとか、痛みだとか、自分の身体を軸にした身体感覚は少なくともすぐには学習されない、または学習不能なものなのではないだろうか、と思った。
それは共有できないもの、正確に伝えることができないもの、言語化できないもの、そして視覚表現や音として表現しづらい、データとして扱うことが難しい領域であると思っているからだ。

それは気配なのか、雰囲気なのか、
雲を掴むようなもので、確かに感じている、在ると思って注目し始めたときには逃げられるような感覚で、一向にわからないままだ。
いや、わからない、届かないものだから面白いのか。

複雑なプロセスと様々な感覚器官を統合させた先にしか手に入らない経験や感動の蓄積。
これが人であることの意味であり、強みなのだろうと思う。

AIが数秒で感動的な音楽を作れても、そこに根源的な感動はあるのだろうか。
身体性を伴い、個の存在や力が目の前に立ち現れてくる時、
私たちは心の底から感動できるんじゃないだろうか。

終わりがあるからこその切実さ。
私たちにはそれを捉えることができる感度がある。

これは願いにも似ているのだけれど。


逆に彼らが「身体」を手に入れたとき、様々なセンサーから得られた感覚は「身体」の形状、または個体によって全く違ったものになるのか、それによって全く違う人格なるものが形成されるのだろうか。
そしてその身体感覚は人の身体感覚とどういった違いがあり、それは私たちを心の底から感動させる力を持つようになるのだろうか。


おそらく、そんなこともうとっくに考えてるよーなんて人はたくさんいるんだろうと思う。知識は浅いし、当たり前のことを言っているのかもしれない。でも、もし自分の興味ある部分が人にしか生み出せないものや根源的な感動と結びついていたら嬉しいと思うし、そこについて考えていたいなーという思いもある。

全部分からなくていい、伝えなくていい、伝わらなくていい。
空気感や雰囲気、目に見えないものから感じ取れてしまう情報。
わかりづらいことの価値。

まだまだ完全には言語化できないものたち。
そこに感動の根源や豊かさが潜んでいるのだと信じている。