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4歳の時に離婚して会えなくなった父親に会ってきた話

変容とは、罪業なり。箱庭を砕くならば。

どうも、Rightです。今年ももう残り僅かですね。来年はどんな一年になるでしょうか。今から待ち遠しくて仕方ないと思ったら大間違い。なぜなら就活が待っているからです。働きたくないでござる。ベーシックインカム早く導入しろ。ガースー、頼むから俺を救ってくれ。この社会不適合者のゴミニートが生き残るにはそれしか道がないんだ。救ってくれガースー。

……さて、就活の愚痴はこのぐらいにして、本題に入ります。今回の記事のお題は、「4歳の時に離婚して会えなくなった父親に会ってきた話」です。

私の家は母子家庭です。自分が4歳、弟が1歳の時に、父親は離婚し家を出ていきました。
離婚の理由は様々だったようですが、大元のきっかけは父親の浮気だったようです。詳しいことは知りませんし、聞くこともかないませんから触れませんけど。
当時はそんな理由なんて理解できるほどの知力もなかったので、いろいろ思うところはありました。自分の家から、どうして父親は出て行ってしまったのか、何故父親がいなくなってしまったのだろうかと。そのせいで、腫物を触るような態度で接されることも少なくありませんでしたし(小学校の頃は特に)。
幸い、母親の稼ぎが良かったために極貧生活を送るということもなく、また、祖父母の家が徒歩圏内にあったこと、叔父叔母にもよく面倒を見てもらっていたこともあり、とても恵まれた環境にはいました。実際、母子家庭でグレてしまう子供も多いようですが、うちは兄弟そろって健やかに育ちました。

こういう言い方は悪いかもしれませんが、実際父親がいなくても幸せな生活でしたし、しばらく父親とは無縁の生活を送っていたので、会う気も更々ありませんでした。そこで、会うことになったきっかけや、会って感じたことをnoteにまとめておきたいと思います。

1.会うことになったきっかけ

「お父さんに会ってみたい」

きっかけは、弟の一言でした。自分は4歳だったので、どんな人だったか、どんな顔をしているのかをなんとなくは覚えていますが、弟は1歳だったので微塵も父親の記憶がありません。父親はどんな人だったのか。どんな顔をして、どんな仕事をして、どんな生き方をしているのか。禿げてるのかどうかなんかも気にしちゃってて。
弟がそう言い始めたのは、実況者のよしなまがアップしていた、10年振りに父親に会ってみたという動画を見て、会ってみたい気持ちが強くなったかららしいですが。

一方の自分はというと、正直そんなことを思ったこともなく、なんならその存在すら忘れかけていたぐらいだったので、「ああ、父親か、別に会ってもいいけど」ぐらいの反応でした。
それを言っていたのが昨年の8月ぐらい。そこから弟の大学受験や自分の就活なども相まって、なかなか機会が作れませんでした。しかし、弟が早めに試験が終わったこともあり、自分も就活で遠くに行ってしまう可能性もあったから、ラストチャンスになるかもしれない、ということで会いに行くことにしました。

母曰く、父親は律儀に養育費を払い続けてくれており、本当に感謝しているのだとか。世間的に、養育費は払われなくなってしまうことも多いようです。離婚する際に当事者間で合意した養育費の支払いを踏み倒されてしまうことが多発しており、法律も改正されるような事態でしたから。
そんな社会の動向とは裏腹に、離婚時に締結した「毎月4万円(弟と自分で2万ずつ)の養育費を振り込む」という契約をかれこれ15年以上守り続けてくれたのは、本当に感謝でしかありません。更に、養育費は20歳までという決まりもありましたが、父親側の好意で僕が大学を卒業する22歳まで払い続けてくれることにもなりました。
お金の額が云々という話ではありませんが、毎月ずっと4万ずつ払い続けるというのは、経済的にも、精神的にも、本当に大変なことだというのは容易に想像がつきます。とても律儀な人なのだと思うと同時に、きっと罪の意識に縛られているのだろとも思いました。
父と連絡を取っていたのは母親ですが、母親が取り仕切って食事会の予定を組んでいた時も、「どの面を下げて会いに行けば……」と随分罪悪感に縛り付けられていたようです。

僕は父を恨んではいませんでした。というのも、前述の通り、自分の家庭に父がいなかったけれど、幸せに暮らしていたからです。祖父母や叔父叔母など、多くの人に支えられながら生活し、家族3人の生活にも何一つとして不自由を感じませんでした。父親の不在をクラスメイトに指摘されて、ふと寂しさを感じることはあっても、それは小学生の頃の話です。高学年になればなるほど思い出す回数も少なくなって、中学生になる頃にはほとんど父親のことを思い出さなくなりました。
ものすごく嫌味な言い方をすると、恨むとかいう感情を持つ前に父親がどこかへ行ってしまったし、父親の顔すらほとんど覚えていられない程小さかったので、恨むことすらできないまま離別してしまったというのが実際のところなのかもしれませんが。
いずれにせよ、恨んでいないことには変わりなかったので、その気持ちを伝えるためにも、そして、実際に会って色々話を聞いてみるためにも、僕たちは父親に会いに行きました。

2.父親との再会

父親が予約してくれた店に、約束の時間よりちょっと前に到着すると、すでに父親は車を停めて待っていました。
その姿は、記憶の中を朧げに漂っていた、幼き日の父親の面影から随分と離れていました。やんちゃでとがった人、という印象があったのですが、随分と物腰の柔らかい人になっていました。

お互い目線が会うと、自然と笑みが零れました。敬語じゃなくてもいいのに敬語を使ってしまったりとか、最初は会話にぎこちなさはあったけれど。案内された個室に行く頃には、そんな気まずさはもう感じなくなっていていました。
すごく不思議な感覚でした。見たことのない人と話しているから、初対面のような気分だったけど、実際は良く知っているはずの人で。親戚のおじさんと話している、というのが感覚としては一番近いけど、家族でしか通じないような話もできるから、父親なんだということを思い知らされて。
顔も似ている部分があるし、仕草や風貌からも「この人が自分の父親だ」ということは、なんとなく肌でも感じていました。
「恨んでいないと言われても、最初に一言だけ言わせて欲しい。身勝手なことをして、寂しい思いをして、本当にごめんね」
席について少し談笑した後、父親は改まってそう言っていましたが、僕も、弟も、母親も恨んではいないので、謝罪もすぐに受け入れられたし、その後変に雰囲気がかしこまることもありませんでした。

父親の仕事について。弟の大学について。自分の将来の就職について。母親の職場の話。
父の頼んだお寿司のコース料理を食べながら、色々な話をしました。回らないお寿司を食べたのは、これが初めてでした。とても美味しかったです。ふぐの天ぷらとか食べたことなかったし。良く分からん副菜とかも食べました。食についての知識が乏しくて恥ずかしい限りでしたが(ちなみに一人5000円ぐらいのコースでした。お父さん、ご馳走様でした)。

談笑の中で一番印象的だったのが、父親のクレカの暗証番号が僕の生まれた時の体重に設定してあるという話でした。母親は弟の体重を暗証番号にしているので、父が僕のを、そして母親が弟のそれを暗証番号として使っていることになります。
父親には別の家庭があるし、子供もいらっしゃるので、てっきり向こうの子供に関連した番号でもつけているのかと思っていたので、正直意外でした。一番最初にできた子が自分だったから、愛着があったのかもしれません。いずれにせよ、自分のことを大事に想ってくれていたんだと知って、嬉しくなりました。僕の成長を楽しみにしてくれているようでした。

まあ、その後案の定「彼女はいるか?」みたいなテンプレートな質問飛んできて、隠れクソホモの自分は無事死亡したんですけどね。しかも、今までフリーだった弟に彼女ができていたので、余計に「お前まだ彼女作らんのか」みたいな目線が痛くて痛くて仕方なかったです。
こんな不出来な人間になってしまって、両親には本当に申し訳ないけれど、おれみたいなマイノリティはこうして生きるしかないので、許してください。結婚式を開いたり、孫を抱かせたりできないし、そもそもカミングアウトすらままならない、こんな人間の底辺のゴミクズみたいな情けない男になってしまったけれど、それでも愛してほしいです。

まあ、そんなこんなで落ち込むこともありましたが(これは完全に自分のせいなので自業自得ではあるのだけど)、基本的には楽しい雰囲気で食事を終えました。連絡先も交換できたし、父親のこともより深く知れて、とても満足でした。優しい人で良かったなぁと思うばかりです。

3.まとめ

今回は十数年ぶりに父親と会ってきたという話をnoteにしました。「父親と会ってみた!」というタイトルの動画が取れそうですね。
なかなかに良い体験だったなと思います。自分を生んでくれて、育ててくれて、途中からはお金だけにはなってしまったけれど、それでもずっと気を揉んでくれていた人に感謝の気持ちを伝えられたことは、この上ない幸せでした。
自分の心の奥深くでつっかえていたものが、一つ外れたような気分でした。また一緒にご飯食べに行きたいなぁ。就職先決まったら伝えたいなぁとも思ってます。

皆さんも、なかなか会えない家族とかがいたら、是非会って欲しいなと思います。コロナもあるので、なかなか厳しいかもしれませんがね。
それでは、また次の記事でお会いしましょう!

ネクロカス!(唐突)

Right

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