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プロダクション・ノオトー「場のストーリー編」(3)

 前回は、「映画館という場のストーリーがあり、さらに映画というストーリーが追加され、観客が楽しむわけです」と締めくくりました。
 映画館という場のストーリーがまずあり、映画館で上映されている映画が、観客のひとりひとりの魂に届いて、初めて映画で描きたかった物語が(観客の魂のなかで)生命を与えられ、意味を持ち始めます。昔から、「映画は観客のものだ」という言葉がありますが、まさにそのとおりだと思います。観客はそれぞれの人生経験を抱えています。同じものなどひとつもありません。そのひとつひとつの魂のなかに芽生えた映画の物語もその人それぞれだと思います。
 「映画館という場のストーリー」と言いましたが、物理的な映画館という空間だけではないとも思っています。ある映画を観に行きたいと思いたち、映画館の上映スケジュールを確かめ、場合により友だちや恋人を誘い、上映前にカフェに立ち寄りこれから観る映画の話を交わし、映画館で映画を観て、映画館から出たあと、カフェでお茶したり居酒屋ゆバーで、映画の話をします。さらに、(良い映画ならば)10年、20年、そして死ぬまで、時々その映画を思い出し、オンデマンドなどで見返したりし、映画館で初めて観たときとは異なる物語を再発見したりするでしょう。
 「映画館という場のストーリー」とは、映画館という場から地続きで、死の床で息絶えるまでなのかもしれません。それは、観られた映画が、著作権期間を超えるほどの力がある場合なのだと思いますが。
 あまり長々と書くのも失礼だと思いますので、続きの話は次回に回そうと思います。次回は、映画館という場のストーリーのなかで最も大切な映画自体は、どうなのかという話になる予定です。引き続き、お読みください。中嶋雷太

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