見出し画像

私の美(50)「醤(ひしお)の誘惑」

 noteで「悲しきガストロノームの夢想」シリーズを書き綴り早くも第59話を先日投稿しましたが、醤(ひしお)について今更「食」ではなく「美」の側面から語っていかがなものかと思うのです。
 けれど、醤の「美」については一度は書き綴っておきたいという欲望があり、欲望のまま身をまかせてしまいます。
 海に囲まれたこの狭い島国に生まれ育った一人として、やはり私もグルタミン酸ナトリウム中毒者の一人です。グルタミン酸ナトリウムとは、つまり旨味成分のことで、日本食好きの人ならば大抵この楽しい中毒なのではと思います。
 さて、醤。醤作りを始めるきっかけは、銚子の駅前の居酒屋さんで知人と呑んでいたときのこと。地元では、イワシを使った醤が伝統的にあるという話を耳にしました。いわゆる魚醤ですね。偶然だったのですが、当時、自分の手で醤を作りたいと考えていたので、「そうだ!やろう!」と勇んで銚子から世田谷の自宅に戻るや、醤作りを始めました。
 醤の元になる麹と茹でた大豆に市販の醤油を加えて冷蔵庫で寝かせていると、日に日に、大豆が発酵し醤へと変化する姿に見入る私がいました。もちろんグルタミン酸ナトリウム中毒者であることも手伝ったのかもしれませんが、大豆が発酵する姿はなんとも言えず、私を惹きつけました。
 食というのは目で楽しみ舌で味わい胃腸が消化することで生命としての喜びがあるのだと思いますが、もう一つ調理過程の楽しみも加算すべきだと思っています。その加算のところをはっきりと教えてくれたのが醤が発酵する美しさでした。
 現代では、お醤油メーカーが製造し醤油瓶に詰めてスーパーなどで販売し、私たちはそれを買ってグルタミン酸ナトリウム中毒を愉しむわけですが、一匹の魚を捌いて切り身を作ることを知らずに、トレーに並べられたお刺身を愉しむのと似ているようです。
 古代から、魚醤など、各家庭や村々で醤を作り、醤油を作ったり、醤をつけて食べたり、醤を何かに入れて煮たりしていたのだろうと考えると、この醤作り体験は原始的でありながらも、原初的な食の楽しみを加算してくれるのではと思っています。
 そんな原初的な食の世界で、醤が発酵する美しさを楽しんでいた人も少なからずいたのではとも想像しています。醤は美しい!と、小さな声で叫ぶ梅雨入りですね。中嶋雷太

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?