神はそれでも、海のようにただ、そこに在るだけなのだ
2月28日、『沈黙』遠藤周作著、新潮文庫、読了。
この小説を読むのに、3年かかった。読み始めるまでに。
なぜかと言うと、この本には読み進めることが困難なほど、つらいことが書いてあるのを知っていたから。キリシタン弾圧の最も厳しかった頃に日本に渡ったポルトガルの宣教師が主人公の、史実に基づく歴史小説と聞けば、内容は自ずと想像できる。
読めば、精神的にキツくなると思い、なかなか踏み出せずにいた。
なぜ今回手に取ったのか。それは、以前遠藤周作の『深い河』を読んでいたからだ。私の勝手なイメージで、堅苦しいと思い込んでいた遠藤周作の作風は、正反対にとてもとても読みやすく、なんと言っても稀代のストーリーテラーである。そのぐいぐいと物語に引き込む技術に圧倒され、テーマや語られている内容的には重苦しく、目をそむけたくなるようなものであるにも関わらず、読了後に何とも言えない快感を覚えたのだ。
その感覚を心身が覚えていたので、『沈黙』のページを、よくやくめくることができた。
この本のテーマは
神はいるのか?
いるのならば、なぜ、こんなにも悲惨な目にあいながら、また死んでいきながら祈り続ける信徒に「沈黙」を貫かれるのか。
この小説の初めから終わりまで、神は、一心に祈り、過酷な運命にはいつくばって生き、拷問に死ぬ信徒たちに対して、「沈黙」を守り続ける。
(なぜ黙っておられるのか。)
主人公の司祭は何度も訴える。
(みな、貴方のために死んでいくのです。なぜ、黙っておられるのですか。)
神はそれでも、海のようにただ、そこに在るだけなのだ。
一方で神は実は多くを語っている。主人公の司祭の目線で語られる本書のいたるところで、あの方は微笑み、語りかけてくる。
クライマックスでは、「沈黙」への問いにすら、答えているように思う。
だが、あくまでもそれは司祭を通して語られているものなのだ。
そして、最後の一文へと続いていく。
この小説を読み終えた時、信仰を持たない私でも、司祭とともに長い旅をし、神について考え、神に語りかけ、神に憤り、神に懇願し、神の前に涙した。司祭の旅(それは私が当初覚悟した通り、読むに堪えない拷問の記録)が終わるとともに、信仰への新たな目覚めを体感した。
キリスト教徒であった遠藤周作自身の信仰への葛藤が、まさしくこの「沈黙」に記されているのだと思った。
私はキリスト教に関して初心者なので、感じたことになってしまうが、恐らくキリスト教の考え方はとても厳しく、踏み絵は固く拒むものであるという事実は揺ぎ無いのだと思う。
「形だけだ、形式的に足を掛けさえすれば、本当に信仰を捨てずとも良い」役人はこうまで言って転ぶこと(改宗)を司祭に迫るが、はじめ司祭は固く拒む。殉教を美しいことだと思い、信仰を捨てることなど塵ほども思わない。しかし、この世のものとは思えぬ迫害が、次第に司祭の心を揺るがしてゆく。
ただひたむきにつらく苦しい生活(米も口にできず、芋や粟ばかり食べ、つらい年貢に苦しみ抜いて、それでも政府に不満の一つも表さない、表せない)を生きる善良な農民が、ただキリスト教を信仰している、そのことの為だけに、次々と拷問にかけられていく。踏み絵に連行される前夜、司祭の元に祝福を請いに来た疲弊した農民に、「踏むことはできない。だが踏まなければ、村の者全員が殺されてしまう。わしらは一体、どうすればよかとですか」と哀訴され、司祭はついに禁句を叫んでしまう。
「踏んでもいい、踏んでもいい」
この、司祭として決して言ってはならない「踏んでもいい」という言葉が、沈黙という小説の最も重要な一文だと、私は思った。
それは、この一文を読んだ時、涙が流れたことと、決して関係ないとは言えないと思う。
遠藤は元来の西洋的考えの「父なるキリスト」というものが、自分の日本人としてのアイデンティティとどうしてもマッチせずに苦しんだそうだ。
そうして導き出された遠藤なりの答えが、この、「踏んでもいい」だったのだと、そう思う。
準主人公であるキチジローについて。
キリストに対するユダとして、司祭に常に付きまとうキチジロー。
信仰はあるが権力と暴力に脆く弱く、あっけなく踏み絵をしてしまう男。
脅されて、何度も司祭と裏切るが、許してほしいとすがりつく男。
何度も何度も、消えては現れるこの男に嫌悪する読者は多いだろう。しかし、物語の最後の最後になっても、この男は依然として司祭の前に、いや、我々の前に現れる。
なぜか。
彼は、キチジローは、人間なら誰しもが持つ弱さ、卑屈さ、卑怯な心だからだ。例外なく、誰しもが持つ、弱さだからだ。
キチジローが所々で訴える内容に、私は胸を打たれた。
「この世にはなあ、強か者と弱か者のござります。強か者は拷問にも耐え、立派に天国ば行くこともできるが、俺(おい)のように弱か者は、パードレ、どうしたらよかとですか」
このようにキチジローは泣きながら訴える。信仰は捨てたくない。固く固く信じている。しかし役人に、改宗しなければ拷問にかけると脅される。恐ろしくて恐ろしくてたまらない。数十年前の日本に生まれたならば、自分はただの信仰厚い、貧しい農民として一生を終えただろう。今の世に生まれたばっかりに、ただ、今のような世の中に生まれたがばっかりに、
信仰を捨てるか命を捨てるかの選択を迫られるーー。
彼の訴えが、痛いほどわかって、どうしても涙ぐんでしまう。
彼は、キチジローは、役人に脅されるがままに何度も何度も踏み絵を踏み、聖なるお方に唾を吐きかけ、潜伏するパードレを売り、それでも、どこまでもどこまでも「許してほしい」と言って追ってくる。
司祭ははじめ彼を嫌悪していた。
だが、物語の後半で司祭の心は反転する。
そして、最後の「切支丹屋敷役人日記」に続くのだ。
ある研究者は、この「切支丹屋敷役人日記」こそが小説中で最も重要なものだと言っている。懐古文で書かれており大半の読者が読むのを辞めてしまうという「切支丹屋敷役人日記」であるが、本文はむしろプロローグに過ぎないのではないかとまで言われたら、何としてでも読もうと思い、ヤフー知恵袋にお世話になりながら、何とか意味を読み取った。
そこには、遠藤周作が悩んだ末にたどり着いた、「日本におけるキリスト教」の姿が、淡々と直向きに、描かれていた。
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