「悲しみの秘儀」を読んで、私が思ったこと。

人生には悲しみを通じてしか開かない扉がある。
悲しむ者は、新しい生の幕開けに立ち会っているかもしれない。


図書館から何度も借りて読む本は、そうあるわけではない。
「悲しみ」という見えないことの確かさが、この本にはある。

綴られている言葉が、私の心奥深くを突いてくる。
嗚呼、、そういうことか、と思い出す、
腑に落ちるような感覚を味わう、
こういうことかもしれないと、何かが広がる。

自分の内にある「それ」を確かめるとき、言葉が要るというのは
私も、そう思う。

若松さんが紡いでくださる言葉が、あまりにも美しく
もう一度噛み締めたいと思い、図書館でまた予約した。


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想いを書くのではない。むしろ人は、書くことで自分が何を想っているのか発見するのではないか。書くとは、単に自らの想いを文字に移し替える行為であるよりも、書かなければ知り得ない人生の意味に出会うことなのではないだろうか。

書くことが好きな私にとって、この言葉を読んだ時、まさしくそうそうと深く頷いてしまった。書かなければ知り得ない人生の意味に出会う、それはやがて自分の言葉として発せられることも多くある。

一旦整理してからでないと、本当に伝えたいことを言葉として伝えることが出来ないと、時々感じている。

整理されずに話される言葉は、話しながら自分の内側であやふやになっていくような感覚がある。そんな時、話しながら、私は何を伝えたいんだろう、何がこの話の中で大切なんだろう、と自問自答している。


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宗教は考えても理解するものではなく、行為として生きて体得するものです。例えてみれば、山の頂上にむかって歩んでいく道であるといえましょう。人は二つの道を同時に考えることはできても、同時に歩むことは決してできません。(遺稿集「南無アッバ」の祈り)

これを読んだ時、7つの習慣もそうであるなと私は思った。行為として生きて体得する、まさしくそうであると。
この言葉に対し若松さんがこう仰っています、「人生の意味は、生きてみないと分からない」 知ることも大事だけれど、歩いてみることも大事ということ。
7つの習慣を生きている人にとって、それは生きて体得したものこそ、自分の力となり、光となることを知っている。それは、無意識的に滲み出ているのだろう、またそれは周りの人に希望や勇気を与えるのだろう。


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人生の困難に直面した時に私たちは、もがき、苦しみ、うめく。
悲痛に打ちのめされて身動きができなくなる。なぜ、生まれて来なくてはならなかったのかと思うことさえあるかもしれない。そこから抜け出すために、さまざまでことを試みる。そんなとき人は、無意識に言葉を探す。
こう書くと奇妙に聞こえるかもしれないが本当だ。わらもつかむ思いで探すのは言葉なのである。

思えば、そういう時には私も探していた 希望の言葉を。
明るい場所にいては、決して見えない光がそこにはある。
暗闇にいるからこそ、その光は見える。
それを探すとき、間違いなく言葉が要る。言葉の光がある。

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悲しみの秘儀を読んで、気づいたこと思ったことを綴らせてもらった。
他にも あ、ここも、これも、と実はいっぱいあった。でもそれはノートに書くことにする。というのも、パソコンで手打ちするよりも、やっぱり書いてほうが言葉が入ってくる。入り方が違うというのかな、そういう感じがする。言葉を書くと不思議と自分の言葉として、語れるような気がする。


今日もありがとうございます。
大切な時間を使って読んで頂きありがとう。
1月も最後の週になりました。1ヶ月、本当にあっという間です。一日一日を大切に、今週も楽しみましょう。




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