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✨夏に読みたい本🍨椎名誠さんの妻でもある渡辺一枝さん著書【私の幼い友人たちのために 時計のない保育園】を読んだ時の衝撃と理想。

✨渡辺 一枝さんとは

渡辺 一枝(わたなべ いちえ、1945年[1] - )は、日本の作家、エッセイスト。作家、椎名誠の妻。椎名誠の仕事都合で東京都小平市に転居する。
満州ハルビン出身。白梅学園短期大学卒業、北里大学中退。
1968年、共同で保育所をつくって保母として務める傍ら、エッセイを書き、1986年「自転車いっぱい花かごにして」で注目を浴びる。
1987年春から文筆業に専念[1]。また、幼少時からアジアチベットに関心を持ち、度々山を訪れている[1]
2008年初の写真集「風の馬ルンタ」を刊行し、初の写真展も開催[1]

渡辺一枝 - Wikipedia

この本は、私自身が学生時代に出会った本です。
当時、児童心理や福祉について学んでいた私は・・・
「こんなにも理想の保育があるのか」
内容については、実際にお読み頂いた方がしっくりくると思いますが、
「子ども1人1人の自主性を最大限に尊重した保育」や「そのための環境整備」や「保育者としての姿勢」について書かれていたと思います。

保育や大きな括りで対人支援(援助)や福祉の現場って、
色々な流派に分かれていると感じています。
そこに答えはないのですが、
私が以前に働いていた障がい児の児童福祉施設は、この本に出てくる保育園と似ていて「寄り添い型」でした。支援者が促すことを主とする「先導型」でなく、
お子さんの「やりたい気持ちや事柄」に寄り添っていく「待ち」のスタイル。
私の性格的なこともあり、「先導型」の施設に勤めたことはなく、
「先導型」の施設に勤めている知り合いの話を聞くと、
「おーすごい。そんな事するんだ。」と学びになることも多いですね。

✨先導型のイメージ↓


【注】決して、私は先導型を否定したいわけでなく、先導型には、その良さや効果がたくさんあると思います。逆に、モンテッソーリ方式は先導型のように成果を短期間で出すことは難しく停滞に見えてしまう時間さえあると思います。

ただ私の思想は、モンテッソーリ教育に近いです。


ABA(応用行動分析)とモンテッソーリ教育は、子どもの教育に関するアプローチとしてしばしば比較されます。両者は教育の目的や方法において異なる哲学を持っています。
**ABA(応用行動分析)**は、特定の行動を変更するために科学的な方法を用いるアプローチです。これは、望ましい行動を強化し、望ましくない行動を減少させることを目指しています
一方で、モンテッソーリ教育は、子どもが自己教育力を持っており、その力を発揮できる環境を提供することに重点を置いています。このアプローチでは、子どもに自由と規律が与えられ、自立と自制心を育むことが目標です2
対立と言われることがあるのは、ABAがより行動の修正に焦点を当てているのに対し、モンテッソーリ教育は子どもの自由な選択と内発的な動機付けを重視するためです。モンテッソーリ教育においては、子どもに与えられる自由が他人の自由を妨害しない限り、話す自由、動く自由、選択する自由、作業する自由、交流する自由、間違いをする自由などが保証されています2
両者のアプローチは、それぞれの子どもや状況によって異なる効果をもたらす可能性があります。したがって、どちらの方法が「ベスト」かは一概には言えず、個々のニーズに合わせて選択されるべきです。教育の方法は多様であり、それぞれの子どもにとって最適な方法を見つけることが重要です。


Copilot

どちらの方法にも、メリット、デメリットはあると思いますが

☆ABA(応用行動分析)


✨メリット:短期間で成果が出やすい。

✨デメリット:支援者が先導していくため子どものタイプによっては、
プレッシャーになってしまう場合がある。

☆モンテッソーリ教育


✨メリット:子どもの自主性に任せるため、自発性が少ない子にとっても、プレッシャーが少なく、その子自身のペースで行える。

✨デメリット:支援者が待ちのスタイルになることも多いため、
長いスパンでの支援と見守りが必要になってくる。


モンテッソーリ的な待ちの支援・・・「待つだけなら簡単じゃん」と思われがちですが、
実は、「ただ待つだけ」で良いわけではないのが難しい。

よく支援の現場で思うのは、
「このケースは、どこまで待てばいいの❔」
「どこからどこまでが待って、どのタイミングで介入が必要なの❔」
という永遠の課題があると思っています。

「このタイミングだと、相手の方の自主性を奪ってしまうけど、
タイミングが遅いと、逆に相手への放置になってしまう。」
きっとベテランの支援者でも、何度でも通る道なのではないでしょうか。

初めから先導していくスタイルの方が言い方は、悪いけど
「把握」がしやすい一面もあったりするみたいです。


✨【私の幼い友人たちのために 時計のない保育園】の話に戻ると・・・

「理想だけど、ここまで子ども達の自主性を保育所全体で徹底させるのは難しい。」
という感想と伴に、

「自由」という言葉の次にきたのは、

「自由に育った子ども達が、小学校に上がった時に、ちゃんと集団行動を送れるの❔」
という未来への心配です。

私の息子の通っていた幼稚園も「子どもの自主性を尊重した」幼稚園でした。今時の画期的なプログラムもなく、昔ながらののんびりした幼稚園でした。発表会の時も、運動会の時も、きっちりと整列することなく、どこかバラバラとした普段の生活を感じるような様子でした。

園方針として
「あえて運動会の練習をするのでなく、普段の生活の中で運動することや皆で協力することを取り入れています」ということだったようです。

障がいのある息子に対しても先生達や周りのお子さん達も理解があり、
とても素敵な幼稚園だったのですが、
この子達が、次に始まる小学校生活の集団生活で嫌な思いをしてしまう事がないのか内心ヒヤヒヤしていました。
答えは、NOでした。

息子と同じ幼稚園出身のお子さん達は、笑顔で小学校の卒業を迎えていました。

「子どもの自主性を尊重する」ことが「その子をわがままにする」のでなく、「自分の内面への自信を作っていく基礎」になっていくことだと
彼らを見ていて感じました。
だからこそ、違う環境に向かったとしても、「基礎としての自信」は変わらないし、それが自分の内面世界を広げていくことになると思います。
自分の内面世界がしっかりとしていれば、外面的な世界に左右されない強さを身に着けていくことが出来ると思います。

私自身も、両親が「子どもの自主性を尊重する」タイプだったので、
自分の好きなだと思うことを子どもの頃から色々とやらせてもらいました。
とことん熱中する時間が、子ども時代にたくさんありました。
私は、本を読むのが好きだったので、色々な本を読むことが出来ました。
家に大きな本棚があり、その本棚から自由に読むことだって出来ました。
集団生活が苦手だった私は、学校で過ごす時間がとても苦痛でした。でも、
「家に帰ったら、自由に本を読んで過ごせる。好きなことに没頭できる。」という時間があったからこそ、そこは頑張ろうと思えました。
でも、中学校になると、部活が嫌で途中から行けなくなってしまいました。でも行けなくなったのには大きな理由がありました。
それは、自分の意志で決めた部活でなく、友達に誘われて嫌々入った部活だったからです。
そこから「自分のことは自分で決めたい」という大切なことを学びました。

そこから、進学する高校も、学習スタイルも、大学も、仕事先も、やりたい事も自分で決めました。
時には、「やってみて違った」「失敗だった」と思う選択もありました。
でも自分自身で選択した結果ならば案外納得できるものです。


自分から進学したいと思った高校があるから、親に説明する責任だって生まれたし、
ただ自分のお年玉だけでは学費は払えないので、そこから「親に説明して、学費を出して貰えるように説明する」ことを学びました。
高校での部活も社会的な活動がしたいと思ったので、
「ボランティア部」にしました。ここでの活動は将来を決める大きなきっかけになりました。
高校3年生の時に、部活以外で障害者支援の活動がしたいと思い、地域のNPO団体の活動に参加しました。のちに非常勤職員として働くことになりました。

学生時代は、夜間部に通い、
昼間は児童や障がい児関係の施設で掛け持ちの仕事をしながら、夕方から大学で勉強をしていました。

息子が生まれて、障がいがあっても
「自分の意志で選択する力」を大切にして欲しいと思っています。
今、息子は好きなことをして、
中学生ですが、通所施設に定期的に訪問に来てくれるワーカーさんと私がいなくても、面談している程です(笑)。






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