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PERFECT DAYSを見た

日曜日に役所広司主演の「PERFECT DAYS」を見てきた。

別の映画を観に行ったときにこの映画の予告を見てから、なんとなく気になっていた。この日映画を観に行く予定はなかったが、朝起きてからスマホ版スイカゲームしかしていないことに気づいた瞬間に、スマホをソファーに投げつけ、一回拾って上映時間を調べた後、アウターのチョイスをミスりつつ家を出た。

吉祥寺オデヲンの2番スクリーンに入ると、公開から割と時間が経っているにも関わらず、席の半分くらいが埋まっていた。後から知ったが口コミの評判が良く話題になっているらしい。なんか今年のアカデミー賞国際長編映画部門にノミネートされているらしいし、さらに言うと役所広司はこの作品でカンヌ国際映画祭の最優秀男優賞を受賞しているらしい。必要ないとは思うが念の為言っておくと、俺はカンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞したことがない。

映画のあらすじをかなり簡単に説明すると、トイレの清掃員として働く役所広司の静かで淡々とした日々を描いた話だ。早朝、竹ぼうきを掃く音で目覚め、身支度をして、植木に水をやり、仕事に向かう。青い軽自動車で渋谷区中のトイレを掃除して回っている。裕福とは言えない環境でルーティーンともいえる毎日を送っているが、それでも主人公はそんな生活を嘆くどころか、満ち足りた顔をしている。皆一度は憧れるが、簡単には真似できないような生き方を選んだ主人公が、生き生きと描かれていた。

はじめに言っておくが、俺はこの映画の感想なり解釈なりを垂れるつもりはない。なぜなら俺は脳の感受性を司る部分が死んでいるからだ。映画を観たからnoteを書いているのではなく、noteを書こうと思った日に映画を観ていただけだ。

本当は俺なりの切り口で物語を解釈して、センスを見せつけたいところだが、なにぶん感性が終わっているので、小説を読んでも映画を観ても、まじで「いい感じ!」か「うーん、、」というギャルみたいな感想しか出てこない。それなのに映画はしょっちゅう見ているのも怖い。制作者のメッセージは俺の感性の網を易々通り抜けていき、交差する網の上に細く積もった作品のカスをこそいでいつも余韻に浸っている。なにか学んだような気になって、脳内の見た映画リストを更新するだけだ。2時間もすれば何を感じたかも忘れてスマホをいじっている。

映画の題名を冠したタイトルをつけておきながら、感想の一つもないのもおかしな話なので、一応言うと、今回の映画はいい感じだった。
俺も主人公のように、同じような日々に喜びを感じて生きて行けたらどれだけ良いだろうと思った。

映画が終わり照明が一斉に灯ると、静かに座っていた人々が思い思いに動き出した。トーンを落とした話し声と衣服の擦れる音で場内が包まれる中、俺はいまだ席に深くもたれたまま主人公モードに入っていた。一人で映画を観た後と一人で普段乗らないバスに乗っている時、俺はこの世界の主人公になる。映画館を出ると、道行く人間がエキストラに見えて仕方なかった。耳はいつもより敏感に街の喧騒や雑踏を拾っきてきて、俯きがちに歩く俺を演出した。そのためにあえてイヤホンは外している。

駅のそばにあった自販機でBOSSのカフェオレを買った。普段は買わないが、映画の中の役所広司が好んで飲んでいたので俺も買った。気温は20度近い中、分厚めのブルゾンを着て、「あったか〜い」のカフェオレを飲んだ。BOSSの自販機がなかなか見つからず15分くらい歩いていたこともあり、飲み終わる頃にはちょうど飲んだカフェオレと同じ量の汗をかいていたが、一歩役所広司に近づくことができた。

豆知識だが、BOSSの自販機は探すと見つからない。青色の自販機がすぐに見つかるが、決して喜んで駆け寄ってはいけない。なぜならそれはきっとアサヒ飲料の自販機だから。
みんなも覚えておくといい。

次に俺は近くの空いている居酒屋に入り、グラスのレモンサワーとポテトサラダを注文した。言うまでもないが、これも役所広司のルーティーンだ。寡黙な主人公よろしく、低いトーンで手短に注文しようと息巻いていたのだが、スマホで注文するタイプの店だった。役所広司はスマホで注文しない。「トホホ、、、」と思いながら、運ばれてきたポテトサラダをつまんだ。直前にカフェオレを飲んでいたせいで、レモンサワーは驚くほど進まなかったが、また一歩役所広司に近づいた。

帰り道、勢い余って駅のトイレを掃除しそうになったが、流石の役所広司もプライベートでトイレ掃除はしないことを思い出し、大人しく電車に乗った。

最寄駅についてもまだ役所広司は続いていて、作中で印象的に描かれている、本を読んで寝る習慣を俺もやりたいと思い、古本屋で文庫本を一冊買った。役所広司がかなり近い。

あと帰る前にヨドバシカメラで2万円くらいするシェーバーを買った。これは映画と全く関係がない。俺の髭が人より濃いだけだ。

できることはやった。役所広司改め、今作の主人公にかなり近づけただろう。彼が価値を置くものの一部を追体験することで、言うなれば彼の人生の片鱗を覗き見ることができた。不恰好かもしれないが、こういう地道な経験を重ねた先で、自分にとって価値あるものに気づくことができるのではないだろうか。客観的な価値は客観的な価値でしかない。物質的な豊かさが人生の豊かさではないのだ。高価なものや刺激的な体験も、彼にしてみればとるに足らない、道端に転がる石とさして変わらないのだろう。

いつしか見失っていたものを、これからまた見つけていこうと思った。高価な宝石ではなく、部屋に吹き込む春風を。壁で揺らめく木漏れ日を。

そんな決意に似た想いを胸に、帰路についた。

家に帰ると、その日の夕飯は鹿児島産の高級黒毛和牛だった。ふるさと納税の返礼品である。
「うひょー!」と思いながら、食べた。
「これが実質タダなのはやばい!」と思った。

黒毛和牛だ。

部屋に吹き込む春風でも、壁に揺らめく木漏れ日でもない。

その時、俺にとって価値あるものは黒毛和牛に決定した。

定期便タイプのふるさと納税なので、今我が家には毎月鹿児島県産の高級和牛が届く。

今週の3連休は北海道に行く。

「完璧な日々」とはこのことを言う。

帰り道に買った本は読まずに寝た。

役所広司の背中はもう見えない。

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あとがき

今日、2万円で買ったシェーバーを実際に使ってみた。今まで使っていたチンカスみたいな安物シェーバーと比べると、剃り味も密着性も、肌へのダメージも全く違っていた。
思えば、作中でも役所広司がシェーバーを使うシーンがあった。よく見えなかったが、多分安物のシェーバーだろう。つまり俺はカンヌ国際映画祭で最優秀男優賞こそ受賞していないが、使っているシェーバーの性能においていえば、役所広司に勝っているということだ。カンヌとシェーバーを比べるなとは言わせない。価値とは他人が決めるものではない。映画を通じて学んだことだ。俺にとってはカンヌより、良いシェーバーの方がよっぽど大切だ。
でもよく考えると安物のシェーバーを使っているのは役所広司の演じる主人公であって、本人は多分俺のより良いシェーバーを使っている。
つまり現状俺は髭の濃さでしか役所広司に勝てていない。ちくしょう。ちくしょ広司。

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