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自己開示について

今日は、私にとって、何かを大きく変える日になる。そんな予感を胸に、この記事を書いています。

【自己開示】

誰かの何かのきっかけになるかもしれないし、単なる私の独りよがりな自己満足になるかもしれない。

どうなるかわからないけど、私は今、何かに突き動かされるようにこれを書いています。

「伝えたい気持ち」と「どう思われるか怖いという気持ち」の間で

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SNSで発信をする時や、人との会話で自分の話をする時に、私は必ずこの2つの気持ちの間に挟まれる自分を感じます。

「伝えたい」

でも

「怖い」

「伝えたい」が勝れば、その時は書くなり話すなりアウトプットします。「怖い」が勝れば、ひっこめます。そして、伝えた後には、「あぁ、どう思われるかな・・・」という後味の悪いソワソワした感覚が、伝えなかった時には、「なんだかんだ言っても、結局人にどう思われるか気にしてるんだな、私」という後味の悪いウジウジが。

どちらを選んでも、なとなくスッキリしなくて。

その行ったり来たりの自分をそのまま放置することもできたんだけど・・・。

最近、私の書く文章や伝える言葉に、「勇気をもらえた」「私も同じ事を感じていた」「感動した」という言葉をいただく機会が何度かあって。それが心の底から嬉しくて。

その喜びは、決して私の「欠乏感」を埋めてくれるという類のものではなく、生きている喜びにつながるような質感のもので。何だかとても温かく愛に溢れたぬくもりを感じるもので。

だから、そろそろ、私は自分に正直に、丸裸の自分を表現していっていいのではないか、気持ちよくスパっと、自分にそれを許可してもいいんじゃないのかって、そう思うようになってきたんです。

「自分を表現することが怖い」につながる原体験

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そもそも、何故そこまで、何かを伝えることに怖さを感じていたのだろう・・・。

遡ると、2つの大きな過去の出来事が見えてきました。

【1.小学校で仲間外れにされた経験】

小学校時代は学級委員をやることが多く、そのポジションは決して居心地がいいものではないにも関わらず、先生からの期待に必死で応えようとする自分がいました。

合唱コンクールに向けての練習中、先生からの期待に応えないといけないというプレッシャーの中で、全く練習に身が入らない同じクラスの子達にいら立ちを感じ、私は「もういい加減にして!!!」と怒りをあらわにして感情的に彼らにその言葉を放ちました。

その時の彼らの驚きの表情は、今でもはっきり覚えています。「へ?りえちゃん、どうしたの?」という表情。「は?何そこまで頑張ってんの?」という表情。「そんな言い方しなくてもいいじゃん」という表情。

それから私は、クラスの仲の良かった女の子達から仲間外れにされるようになりました。1年くらいその状況が続きました。いじめまではいかなかったけど、避けられているのを感じて、孤独な毎日でした。家に帰って弟とドラクエをやる事だけが楽しみ、そんな日がしばらく続きました。そんな私でも、変わらずに接してくれる友人が1人だけいて、彼女の存在だけが支えでした。

【2.ドイツでの中学校生活】

その後、私は父の転勤でドイツのハンブルグという町に引っ越しました。現地では、インターナショナルスクールに通い、英語が共通言語である多国籍の人達の中で3年間を過ごしました。が、クラスの半分近くが日本人だったため、学校にいながらも日本語で話し、日本人の友人達と過ごすような環境でした。

とは言え、日本人以外の友達と接する機会ももちろんあるし、授業で当てられると英語で発言しないといけない。英語は習っていたし、それなりにわかるようにはなっていたけれど、「話す」となると全く別物でした。

自分の伝えたい事の半分も伝えられない。自分の気持ちが伝わらない。そんなもどかしさと、「どうせ伝えても理解されない」「表面的な話しかできない」そんな諦めが私の中に常にありました。努力しない自分が悪いのにね。

海外に住んでいたというと「すごいね」と言われるのですが、私はこう言われる事がすごく嫌で、自分が帰国子女であることをあまり言いたくないとずーっと感じていました。

せっかく海外に住んでいたのに、インターナショナルスクールに行っていたのに、英語もちゃんとしゃべられるようにならず、英語で自分の事を伝えることもできず、そこから逃げていた自分の歴史がそこにあったから。

母国語以外で自分を表現する事の難しさをこの経験で痛感したのはもちろんのこと、「表現しようとした時に自分の中の不甲斐なさが顔を出す」という無意識の癖までもが根付いてしまったのではと思います。


以上の2つの経験が、私が人に何かを伝える時の「怖れ」としっかり紐づいてしまっていたように感じます。私の中にしっかりと、ひっそりと、その怖れが息をしていて、「何かを伝える」という場になると、しめしめと顔を出してくるのです。

12歳~32歳までの20年間、私は人前で話をするというのが怖くて怖くて仕方ありませんでした。大学時代の気心知れたサークル仲間の前だけでは、どんな自分もさらけ出せるようになっていたけれども、それ以外の場では、声が震え、手に汗を書き、自分の緊張が伝わってしまったのではという羞恥心と自己卑下の気持ちをいつも抱えていました。

それでも「伝えたい」という思い

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そんな「怖れ」を背負ってきていた私ですが、32歳の時、今から9年前に「婚約破綻」を経験し、自分を生き直そうと決めてから、少しずつ少しずつ、自分の事を伝えることができるようになっていきました。

心理学やコミュニケーションの事を学び、自分を癒し、自分自身に対しての信頼を取り戻す事ができるようになっていきました。

そして、何より、そのような学びの場は「安全安心の場」であり、私がどれだけ自分の醜い部分をさらけ出しても、それを尊重し、受け止めてくれる講師の方々や仲間達がそこにいてくれました。

9年間かけて、少しずつ、少しずつ、「どんな自分でもOK」と自分に許可を出せるようになってきました。まだ怖れや不安もあるけど、それも含めて自分なんだ。それでいいよ、と自分に言ってあげることができるようになりました。

そうすると、「伝えたい」という気持ちが私の中から湧き上がってくるような感覚になる事が増えてきました。

それは、もしかすると、ただただ、「発散」したいだけなのかもしれません。単なる「自己満足」なのかもしれません。でも、それ以外にも、「伝える」という事には、私にとって、2つの大きな意味があるように感じています。

【1.重い荷物の正体をしっかり見る】

私が背負ってきた、「伝える怖さ」という重い荷物はだいぶ軽くなりました。でも、まだ背負ってます。とある日はポーチくらいの軽さだけれども、とある日は、連泊で山登りに行く時のザックのような重さにもなる。なんだか、そもそも、背負ってるのが疲れてしまったんです。日によって重さが変わるのにも疲れてしまって。

一旦、その荷物を下ろして、中を開けて、中身をしっかり見て、周囲の人にも見てもらって、それで「あぁ、それなら重いよね」とか「思ったより軽かったね」とか、実態を見た上で語りたい、そう思ったんです。

今まで、実態が良くわからないものに対して、私はただおびえていただけなのかもしれない。だから、下ろして中身を見てみよう、と。

不安って、不安の中身が曖昧だとどんどん膨張するんです。震えながらも不安の中身をしっかり見て実態が把握できると、不安がやわらぐということもある。それをやってみよう、と。

【2.私の何かが人の役に立てるのなら】

そして、2つ目の理由。最近、私が伝えている文章や言葉を見て、「気持ちが軽くなった」と言ってくれる人が何人かいて。純粋に、すごく嬉しいんです。たまらなく嬉しい。

しかも、私の表面的な部分、いわゆる「外側」の部分ではなく、中身の部分、しかも結構ドロっとした生々しい部分、を出していくことで、そこに対してそういう言葉をいただけることが本当に嬉しい。

「外側から見える私」に対して、「すごいねー」と言われてもあまり響かなくて。かっこわるくて、情けなくて、でも人間臭くて生々しい、そんな「内側の部分も丸出しの私」に共感していただけたり、何か感じていただけることの方がよっぽど嬉しいんです。

自分の赤裸々な過去や、そんまんま真っ正直な経験を伝えることで、少しでも誰かの役に立つのなら・・・。それならば、多少の羞恥心や恐れがあっても、えいやって出してしまえるかも、やっと、そう思えるようになってきたんです。

どんな自分でもOKだ、というとてつもないパワー

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言葉ってすごいな、と思うのが、それを書き出すこと、または話すこと自体にとてつもない「浄化作用」があるということ。

現に、私がこうやって自分の「自己開示」についてつらつらとここまで書いているこのプロセスにおいて、既に大きな浄化作用が力を発揮していて、「なーんだ、たいした事ないよ、大丈夫だよ」っていう気持ちになってきているから。

これが一時的なものかもしれないし、また「怖れ」が顔を出すこともあるかもしれないけど、「怖れ」がゼロになることを期待する気持ち自体を手放せばいい。

「怖い、けど伝えたい」

そのままの自分でそのままを出していけばいいんじゃないの?

って思えるようになってきているように感じます。

【どんな自分でもOK】

そう自分に許可が出せると、本当に楽。

そして、周囲の人に対しても

【どんなあなたでもOKだよ】と思える種が芽吹いてきているのを、私の中に感じています。

「人間だもの」っていう誰かの名言が、この歳になって響いてくるな~

そう思えるようになったのも、私のこれまでの経験を共に歩んできてくれた人達、どんな私でも受け止めてくれて尊重してくれた人達、今でも傍でエールを送ってくれる人達、そんな皆さんがいるから、「人間っていいな」って思えるんです。

最後は感謝の気持ちがたくさん湧いてきて、とても良い気持ちでこの投稿を締めくくることができそうです。

はぁ~、みなさん、いつもありがとう~💛


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