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いのちへ還ろう わたしへ還ろう

結局、伝えたいことは
タイトルのコレなんだろう。

潜在意識を探求したり
ヒプノセラピストを養成する
講座をしたり

コミュニティを主宰したり
循環のリトリートをしたり

仲間たちと
暮らすような旅をしたり

一見、無駄に見えるような
くだらないことに見えるかも
しれないことに没頭して遊んだり

アミの世界観を軸に
映画を創ろうとしたり

それら全て
パッションからやっていて

パッションが向かわせる先に

いのちへ還ろう
わたしへ還ろう


があって

生の躍動そのもの

へといざなう
ということなんだろうと思う。

その大前提として
わたし自身が "そうである" ために

わたしのいのちが
無意識が

そこへ向かわせてくれて
いたんだなと思う。



この世界の現状や
わたしたちの現状は

2つの【分離】から
起こっている。

1つは
「真我」からの分離

もう1つは
「いのち」からの分離だ。

(真我もいのちも、源は同じ)

真我からの分離は

「あぁ、自我のことね」

と理解する人も多いと思うけど

「いのちからの分離??
生きてるのに分離ってどゆいみ?」

ってなる人も多いのかな、って
思うので、今日はこれについて
書こうと思う。



「いのちからの分離」は
いくつか前の

「日常(背景)こそ神」

で書いていることにも
繋がることなんだけど

わたしたちは、知らず知らず
「いのち」から遠ざかる
選択をし続けてきた。

無意識過ぎて気づけてないけど

土から離れ
コンクリートの中に暮らし

どのような生産工程かも
わからないことに無関心に
お金を出して購買し

暮らしの全てを作業にし

そういう構造の中にずっと
いるから、それが当たり前に
なり過ぎている。

生きている、というより
もはや「息している」だけで
生きてはいない。

わたしたちは

「いのちは大切なものだ」

ということを、言葉としては
わかっている、いや
知っているけれど

その実感は
病になったり
誰かを失ったりしなければ
わからない生活を選んで
しまってるんだよね。

それは、合理性や効率化こそ
正義とばかりに、経済を
ゴールにしてきたから。

本来なら、いのちのために
経済が手段になるはずが

いつのまにか、いのちを手段に
経済がゴールにすり替わってしまった。

わたしたちは
最も大切で、尊いはずのいのちと
自分の間に、経済や合理性や効率化を
介在させて遠ざかってしまったのです。


これで、外側に
幸せや豊かさを求めても

幸せや豊かさを感じさせてくれる
いのちから遠ざかっているのだから

叶うわけがありません。

滑稽ですよねw

幸せになりたい
豊かになりたい、と

願っているのに
そこから最も遠ざかっていたのは
自分だなんて。

だから

「いのちへ還ろう」

なんです。



じゃあ、いのちへ還るために
何からすればいいか?は
色々あるけれど

最も速いのは

「いのちの背景を知ろうとする」
「背景に触れようとする」

ことかもしれません。

実際に自ら、いのちの糧と
なってくれているいのちを
生み出す、育む、ということに
取り組んでみること。

裸足で大地に触れてみる。

暮らしの中で、作業に
なっていることを、心を込めて
祈るようにやってみる。

家の中の緑や花に
話しかけてみる。

お風呂に入りながら
自分の体に声をかけて
触れてみる。

しばらく空を見上げて
ただただぼーっとしてみる。

家族や恋人と抱きしめ合う。

生まれてきてくれて
出会ってくれてありがとう、と
言ってみる。

まだまだあるけど
こんな感じ。



これまで、メルマガなどで
紹介してきた TOLAND VLOGさんの
動画を、もう一度貼り付けて
おきますね^ ^

【全ての日本人は見てください】

【日本が大きく変わる日】
アフリカの長老が明かす“大変革の日"が衝撃すぎる。

#命
#いのち
#生の躍動



生が躍動する大人たちの
コミュニティ【eichi】


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