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書くよ。かたちあるものは作れないけど

かたちあるものが作れる人、いいな。

絵画、洋服、アクセサリー。
割れ物、建築物、ロボット……。
とても書ききれない、世の中に数多ある造形物。

いいな、残るものを作れるって。

羨ましいの一言に尽きる。
あまり使いたくない言葉だけど。

父は木工作が得意。現役時代は普通のサラリーマンだったけど。
子供の頃、銀座の博品館で売られているドールハウスを羨ましがっていたら、それはそれは丁寧にきめ細やかに時間をかけて作ってくれた。妹とごっこ遊びをして楽しんだ。なぜか父は家ばかりを作り、実家には作品がゴロゴロある。

母は裁縫ができる。親子おそろいのワンピースを作り、それを着て並んで撮った写真もある。このステイホーム中はパッチワークで時間をつぶしていたらしい。マスクもひょいひょい作っていた。

手先が器用な親の元で育ったのに、わたしはそれを引き継いでいない。
めちゃくちゃ不器用ではないけど、折り紙はきれいに折れない。

作れないだけでなく、もちろんデザインもできない。

作ると言ったら料理。
だけど儚い。すぐになくなっちゃう。

「かたちあるもの」と聞いてイメージするのは、それ相応の時間残り得るもの。

永遠とはいかなくとも、その可能性がわずかでもあるもの。

たとえ自分がいなくなっても、人々に夢や希望を与えられるもの。感動を与えられるもの。

って、書いていたらすごく贅沢でエゴのかたまりのような気がしてきた。

諦めるよ。
認めるよ。
わたしの手からはかたちあるものが生み出せない。

だけどこうして毎日noteを書いている。間違いなくわたしの手から。

文字と単語の連なり。

有形のものだけが優れている、とはなんとも浅はかだ。

なぜなら、わたしは色んな方のnoteに支えられているから。
これまでも、間違いなくこれからも。


必ずしも永遠が素晴らしいわけではない。

一瞬でもいい。
すぐに忘れてくれてもいい。
その瞬間だけでも誰かを救うことができれば、本望だ。

だからこうして毎日noteを書いているのかもしれない。

無形のものに秘められた可能性を信じて。
なかなかその域には達しないけど。


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