書くよ。かたちあるものは作れないけど
かたちあるものが作れる人、いいな。
絵画、洋服、アクセサリー。
割れ物、建築物、ロボット……。
とても書ききれない、世の中に数多ある造形物。
いいな、残るものを作れるって。
羨ましいの一言に尽きる。
あまり使いたくない言葉だけど。
*
父は木工作が得意。現役時代は普通のサラリーマンだったけど。
子供の頃、銀座の博品館で売られているドールハウスを羨ましがっていたら、それはそれは丁寧にきめ細やかに時間をかけて作ってくれた。妹とごっこ遊びをして楽しんだ。なぜか父は家ばかりを作り、実家には作品がゴロゴロある。
母は裁縫ができる。親子おそろいのワンピースを作り、それを着て並んで撮った写真もある。このステイホーム中はパッチワークで時間をつぶしていたらしい。マスクもひょいひょい作っていた。
手先が器用な親の元で育ったのに、わたしはそれを引き継いでいない。
めちゃくちゃ不器用ではないけど、折り紙はきれいに折れない。
作れないだけでなく、もちろんデザインもできない。
作ると言ったら料理。
だけど儚い。すぐになくなっちゃう。
「かたちあるもの」と聞いてイメージするのは、それ相応の時間残り得るもの。
永遠とはいかなくとも、その可能性がわずかでもあるもの。
たとえ自分がいなくなっても、人々に夢や希望を与えられるもの。感動を与えられるもの。
って、書いていたらすごく贅沢でエゴのかたまりのような気がしてきた。
*
諦めるよ。
認めるよ。
わたしの手からはかたちあるものが生み出せない。
だけどこうして毎日noteを書いている。間違いなくわたしの手から。
文字と単語の連なり。
有形のものだけが優れている、とはなんとも浅はかだ。
なぜなら、わたしは色んな方のnoteに支えられているから。
これまでも、間違いなくこれからも。
必ずしも永遠が素晴らしいわけではない。
一瞬でもいい。
すぐに忘れてくれてもいい。
その瞬間だけでも誰かを救うことができれば、本望だ。
だからこうして毎日noteを書いているのかもしれない。
無形のものに秘められた可能性を信じて。
なかなかその域には達しないけど。
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