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村上春樹『女のいない男たち』雑感

2022年下半期は村上作品を読む機会が多かったように思う。

特に何度も読み返したのが「女のいない男たち」という短編集だ。6つの短編は文字通り「女のいない男たち」を描いている。妻に浮気をされたもの、死別したもの…様々な男たちが作品に登場する。英語版ではそれに『恋するザムザ』という作品が加えられて7つの短編として出版されている。個人的に好きだと感じた作品は『シェエラザード』『木野』そして英語版にある『恋するザムザ』である。全ての感想を書いておこうかとも思ったけれど、この3作品だけ感想をまとめておく。

『シェエラザード』

性交の後に毎回物語を聞かせてくれる女がいた。羽原はその女を「千夜一夜物語」になぞってシェエラザードと呼ぶようになった。ある日は「私の前世はやつめうなぎだったの」と、ある日は「ときどきよその家に空き巣に入っていたの」と、彼女は物語を紡ぎ出す。

そもそも羽原はなぜ「ハウス」という陸の孤島に一人いるのか、看護師の資格を持つシェエラザードがなぜ羽原の「ハウス」に通うことになっているのか、作品には謎が多いが、その謎は謎のまま物語に存在している。

彼女の話す物語もまた、偏執狂的で、静かな狂気がそこに横たわっている。学生時代好きだった男の子の家に何度も忍び込んで、彼の持ち物と自分の持ち物を交換して帰る、そんな女だ。それでも私は彼女がとても魅力的な人だと自分の目に写しているし、彼女の物語には引き込まれる。

「やつめうなぎはやつめうなぎ的なことを考えるのよ。やつめうなぎ的な主題を、やつめうなぎ的な文脈で。でもそれを私たちの言葉に置き換えることはできない。それは水中にあるもののための考えだから。」と彼女は言っていた。

読了後、やつめうなぎになった時のことを考えてみた。数メートル先にいる他のやつめうなぎの上に鱒が現れてするすると上っていくのを見ながら、私はただ一人ゆらゆら揺れているのに気づいて哀しい気持ちになった。きっと羽原も海のどこかで一人そうしているのだろう。

『木野』

「僕はまだこうして一人であちこち旅を続けています。ときどき自分が半分ほど透明になった気がします。とれたての烏賊のように、内臓まで透けて見えてしまいそうです。」

妻の浮気現場を目撃して家から逃げ出した木野は、仕事を辞め、伯母から譲り受けたバーを始める。居心地の良さからすぐに常連客がつくようにもなるが、ある雨の日に客の女性と一夜を共にして以降、店先に蛇が頻繁に現れるようになる。

客として訪れる女の身体には煙草の焼き痕が無数にある。木野はその痕を辿る行為は、木野自身の傷を辿り、確認するものとなっている。自分が傷ついているというその事実を知覚できずに、無意識的に感情を押し殺していく木野が、自らの感情を、自らの傷を認知していく過程を描いているのだと感じる。マイナスの感情も自分の感情なのであって、それなしには自らを存在させることはできないのだろう。感情の死は自らの存在の死ともなる。

『恋するザムザ』

カフカの「変身」はある日グレゴール・ザムザという男がある朝目を覚ますと虫に変身してしまうという場面から始まる物語である。『恋するザムザ』はその逆、つまりある虫が朝起きるとグレゴール・ザムザになっていた…から物語が始まるのである。彼は立つことすらままならない状態から少しずつ人間を学習していき、家に鍵師の女が訪問してくることが物語に大きな変化を与える。

『恋するザムザ』は物語の舞台がプラハとされている。物語内でのプラハの様子について「今この街は外国の戦車と兵隊で溢れている」と描かれていて、1968年のチェコ事件前後が物語の舞台とされているのだと思う。

カフカ『変身』では、自分の家具を片付けられることで自分の人間らしさが奪われるのではないかという思いによって結果として大怪我を負ってしまい、妹の演奏を聴きたいという人間性によって最終的に死を迎えている。

一方、『恋するザムザ』ではチェコ事件のプラハへの軍事介入によって、世界が「壊れかけている」状況となっている。そのような絶望的状況に屈するのではなく、彼が鍵師の女への個人的な恋愛感情を抱くことによって彼は人間らしさを得ることができている。ザムザと鍵師の女の恋愛という個人的で人間的活動が鍵となって、「この世界は彼の学習を待っている」という世界的希望につながっていく。『変身』では人間性を捨てきれなかったために死を招いていて、逆に『恋するザムザ』は人間性のおかげで希望を得ることになっている。全てにおいて両極端な物語だと思う。面白いのは、これまでに『変身』との対照性を描いた作品であるのに関わらず、村上自身は昔に読んだままの朧げな記憶のままでこの作品を描いたらしい。改めてすごい作家だな…と思わされた。

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