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日記『茫々』

中学校、高校時代で結構仲良くしていた人と久しぶりに会う機会が続いた。昔話に花を咲かせつつ、近況の話になった。その同級生は浪人をしていて今年ある大学に合格していて、私は今春から大学院に進学している。

「学歴で〇〇に負けた」「最終学歴〇〇になるの良いね」「大学院で〇〇に行くのは凄いね」大学院に進学してから、幾度も浴びた言葉たち。その全てを彼からも貰い、釈然としないまま、でも自分の中で完全な言語化を探せないまま、彼と会うことは無くなった。正直これらの言葉には辟易している。

きっと褒め言葉なのだ。これらの言葉にそれほどの悪意がない、ということは私にも分かっている。それでも何か腑に落ちず、不快感を感じるのも確かだ。

ではその不快感の根底に潜むものは何か。
「自分の価値が、自己の内面的評価ではなく大学という自己の外部の存在によって定義されるから」
それによって
「自分の一面的部分でのみで、自己全てを評価されているように感じるから」
「時に自己の評価よりも過大評価をされているように感じるから」
「外部存在の評価、ランキング=自分の評価のように定義されているのではないかと感じるから」
ということだろうと感じた。

そもそも、大学によって所謂ランキングがあるのは私には疑問だ。
学びたい学問や教えを請いたい教授、尊重できる教育プログラムといった要素で大学を選ぶべきだし、大学の「ランキング」で進学して「学びたい学問が何か」を考えることを放棄している人が多いように感じる。〇〇大学卒業の肩書き、〇〇学部卒の肩書きが欲しいだけで、学びたい訳ではない。結果としてその学問への興味がなくて入学後苦戦する人が多い。本末転倒だ。

現在の「ランキング」として機能している大学群は本来、学位が担うべきもののはずだったのだ。例えば同じ経済学を学んだ学生でも、学位卒よりも修士卒の方がより専門的な学問を履修したと言えるため、「ランキング」としては上にあるはずだ。

現状を見てみると、この学位による区分はむしろ逆に作用している。大学院入学後から、後輩やnoteを読んだ方から相談をいただくことが多い。相談内容の一つ
でよくあるのが「修士課程に進むと就職が難しいと聞いたのですが…」という内容だ。
文系の修士課程以降の学生はよく「社会性が足りない」「研究ばかりしていてコミュニケーション能力に問題がある」と言われ、就職が難しいなんて言われることもある。真意のほどは知らないが、そう言われていることは事実である。

学部生よりも数倍研究に向けて努力をしているはずなのに、修士課程というだけで世間からの風当たりが強い。博士課程に進んで、研究職以外の道へ進もうと思えばその風当たりの強さは倍増するのだ。私たちはその風に抗いながら研究をし続けなければならない、そんな話をよく他の院生と話している。
教育システムに問題があるのか、就職活動のシステムが破綻しているのか、そのどちらもであるように感じつつも、「研究の面白さ」だけはただそこに留まり続けている。

2022/08/30