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仮面の忍者 赤影 

オープニングナレーション 冒頭のナレーションは、視聴者の子ども達が少しでも歴史に興味を待って欲しいと願って、平山亨自ら書き起こしたナレーションです。 冒頭ナレーション 4部作全文 『豊臣秀吉』が『木下藤吉郎』だった頃 琵琶湖の南に『金目教』という怪しい宗教が流行っていた それを信じない者には恐ろしい崇り(たたり)に見舞われるという その正体は何か 『藤吉郎』は『金目教』の秘密を探るため 飛騨の国から仮面の忍者を呼んだ その名は 「『赤影』参上!」 『織田信長』の活躍し

    • 電波人間タックル(抜粋)

      平山亨 遺稿 一部抜粋 なぜ、城茂は風見志郎のように 「君は仮面ライダー8号」だと言わなかったのか? 仮面ライダーと名付けるには、あまりにも哀れな岬ユリ子。 むしろ彼女に報いるためには誰のでもない、茂の唯一の伴侶としておいてやりたかったに違いない。

      • 『スパイダーマンの頃』

        「スパイダーマンの頃」 平山亨 遺稿  私は自慢にもならないが、もともと記憶の悪い事では人後に落ちない人間で学生時代は、 記憶関係の学科は全て駄目と言う苦い過去を 持ってる。  自分のやった作品の事だから、当時は必死でやった物であり、いい加減にやった物など無かったのだが、覚えて居るかと聞かれると、 遠い昔の話のようで、中々思い出せない。  東京12ch (今のテレビ東京) 昭和53年の 5月17日放送開始だから企画は遅くともその半年前から進めてた筈だ。  だんだん思い出し

        • 平山亨プロデューサーの言葉

          安藤(三男)さんの此の言葉にはしびれたなあ。俳優もスタッフも大人だから子供優先の世界には入り難い。でも私は子供優先の異常児だから大人だと思って子供を馬鹿にする大人は許せない。俳優でも監督でも子供優先の人にお願いした。どんな名優でも子供を馬鹿にする人は御免願うのだ。子供は敏感だから此の小父さん子供だと思って馬鹿にしているなと感じたらそこから先はもう見てくれない。私はそういう子供だったから子供の気持ちは判るのだ。潮健児さんも子供優先だったが安藤さんも子供優先。だから私の番組は子供

        仮面の忍者 赤影 

          軽蔑を含めてジャリ番プロデューサーと言われて

          当時、私は子供番組を専門にやる者として皆から軽蔑を含めて『ジャリ番プロデューサー』と呼ばれていた。好意を持つ先輩から善意の忠告を受けた事もある。 「平山さん。赤影で30%取るのも良いけれど、プロデューサーには『格』と言うものがあるんです。いつまでも子供番組やってないで、そろそろ大人番組やった方がいいですよ」 これには参ったなあ。好意の忠告なだけに、私は人生の選択を誤ったのかと迷った。でも、他に子供番組をやるプロデューサーがいないのだから私がやるしか無かったのだ。僕だって大人番

          軽蔑を含めてジャリ番プロデューサーと言われて

          丹波哲郎さんの出演交渉

          『花と狼』で、丹波哲郎さんに出演をお願いに行ったところ、出てもいいが、一晩マージャンにつき合えと。 来たなと思い、「マージャンやりに来ました」  勝ってはいけないが、負けは自腹だから大変。貯金をおろし、現金を用意して臨んだ。  その時は、丹波さんにいい手がついて、役満ができる。それが見え見えなんだ。「これ通るかな」と、あえて振ってドカーン。 丹波さんはご機嫌。私は「やられたー」とか言って笑う。丹波さんはわざと振ったとは思っていない。「しめた。当たったぞ。 あの馬鹿野郎、下手だ

          丹波哲郎さんの出演交渉

          仮面の忍者 赤影の話

          『仮面の忍者赤影』はギャラの安い大部屋の役者さんでも、活躍の場を与えてあげれば主役級に負けない演技ができることを証明したと思う。逆に大物を投入したのが音楽担当の小川寛興さんで、昭和 40年に日本レコード大賞の作曲賞を受賞した当時の売れっ子。その小川さんが作曲したオープニングの『忍者マーチ』に、広告代理店の人が大した理由もなく作り直しを要求したことがある。仕方ないから小川さんに面会して正直に事情を説明したら、自信作だからこのままでいいと言われた。会議でその通りに伝えたら、代理店

          仮面の忍者 赤影の話

          特撮界の2人

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          ジャイアントロボの最終回

          「最終回に対するファンの声も様々だった。ロボを恋人のように思っていたという女性ファンは、たとえボロボロでもいいから帰ってきてほしかったと言っていた。逆に3日3晩にわたって泣き続けたあげく、子供心に世の中は自分の思い通りにならないことを学んだと語る人もいた。それほどファンに愛されて視聴率もよかった『ジャイアントロボ』が2クールで終了したのは、大赤字を出し続けて採算が合わなかったため、東映のトップがNETに番組打ち切りを申し込んだのが真相。NETのプロデューサーは続けるつもりでい

          ジャイアントロボの最終回

          蜂女物語(平山亨の遺稿)

          亡き父の資料(コピー数枚)蜂女物語があった  素体となったのはサダエという昭和20年2月生まれの日本人の少女で、誕生直後に母親は憲兵から逃れようとして死亡し、孤児院の大台園で育ったが9歳でアメリカの資産家リグリーの養子となる。  しかし16歳の時にリグリーが破産し南アフリカ共和国に移住したが当時人種差別の激しい南アフリカで日本人のサダエは迫害され、養父母のもとからも逃げ出し黒人夫人に保護されるが、黒人居留区で「白人のスパイではないか?」と疑われて日本へ強制送還されることになる

          蜂女物語(平山亨の遺稿)

          FBI特命捜査官 滝和也 サイドストーリー(平山亨執筆原稿より)

          滝和也とは、仮面ライダーシリーズ第11話ゲバコンドル篇で登場し1号ライダー本郷猛 2号ライダー一文字隼人のよきパートナーとしてショッカー、ゲルショッカーの最期まで 共に戦った米国FBIの特命捜査官だ。 彼の登場はシリーズとしては全く予想されていなかったもので、あのアクシデント、藤岡弘くんの骨折入院による出演不可能という最大のピンチを切り抜ける窮余の策として出演して貰ったのだ。主演俳優なしで映画を作らねばならない。しかしあの時は、なんとしても、やってのけて見せるといきりたって

          FBI特命捜査官 滝和也 サイドストーリー(平山亨執筆原稿より)

          特撮界の2人

          この2人のエピソードはあまりにも有名。 どうしても特撮をやりたくて、話を聞いてくれる人が父(平山亨)だろうと思ったが、連絡先も知らない。取った方法が平山姓の電話帳を片っ端から掛けていた。 以前、三池敏夫さんに聞きました。 電話帳の話、誰が掛けたのですか? 三池敏夫さんは少し考えた後、『佛田くんかな?』 父は、特撮の矢島信男さん(当時、太秦で仕事していた)に会えるように橋渡ししました。サポートはここまで。その後は、お二人の『諦めない心』で。

          特撮界の2人

          当時の企画書(一部分)

          当時の企画書は、企画者の手書き原稿を印刷会社に持ち込むと、鉄筆を持って待機していた印刷会社のスタッフが謄写版原紙を切りはじめます。いつも《急ぎで》という注文でしたから、僕もお手伝いで父の原稿を持ち込んだ事があります。受け渡し場所は、某喫茶店のマスターに渡す手段でした。

          当時の企画書(一部分)

          6代目仮面ライダー

          此処にも腸捻転《ネットチェンジ》の痕跡が。台本の表紙左上。 題名に6代目仮面ライダーとしたのは、岡崎徹さんからの弔電にそのように記してあったので。

          6代目仮面ライダー

          遺された資料の中に

          心に雪の降る日がある 心に雨の降る日がある  でも 心に太陽の輝く日もあるんだ 僕の身体は機械でも 心は人間とかわらない (Kの詩より)

          遺された資料の中に

          映画 宇宙からのメッセージ

          この映画の資料は一箱分保管してあります。 この話は、平山亨の偲ぶ会の発起人になっていただく為に、東映本社まで岡田裕介さんに面会にお伺いした時に、聞いた話です。 監督の深作欣二先生と脚本家の松田寛夫さんが現場で喧嘩(?)が始まって、なかなか収拾がつかなくて、父は困って本社の岡田裕介さんに『助けてくれ』と電話があったそうだ。撮影は京都太秦撮影所。喧嘩の原因は脚本が面白くないという理由。 岡田裕介さんは、当時を懐かしそうに『太秦まで行きましたよ』と、笑ってました。 岡田裕介さんは、

          映画 宇宙からのメッセージ