【つぶやきエッセイ】日々の葛藤を抱えながら、生きてゆく
私は拒食症だ。食事を摂ることが恐ろしく感じられ、1日中頭は食事のことでいっぱい。体重増加を極端に嫌う。今回は、そんな私の思いについて、少し綴ってみようと思う。
この病になってから「恐い」「なんとなく不安」という気持ちになることが増えた。例えば、予定のない日や、暇な時間。何か予定が入っていると安心できるのだが、予定がない、ぽっかりと空いた時間に不安を感じる。
おくるみを脱がされた赤ん坊のように、ぽおんと投げ出されると、何をしたらよいのか、分からなくなってしまう。もちろん、大好きな読書をしていても良いのだけれど、昼間に身体を休めることに罪悪感を抱いてしまって、(過活動という症状のひとつである。身体を動かしてしまうのだ)なかなか集中することができない。
だから、運動動画を見ながら体操をしたり、こうして思いを綴ってみたり、外出してみたりして、どうにか1日をやり過ごしている。その1日をやり過ごすのに、私は一生懸命だ。
アルバイトや授業がない日、起床したら「今日はどのように過ごせばよいのだろう」と不安に襲われる。焦燥感にも近いかもしれない。その居心地の悪さが、私には辛いものに感じる。
それに、1日3回ある食事を、恐ろしいと知りつつ摂らないといけないし、空白の時間や心を「埋める」ために、自分で工夫をこらさないとならない。
本当は、周りの友人みたいに、「昼まで寝てしまった」とか「今日は1日も外出しなかった」とか、そういう良いてきとうな具合で過ごしてみたい。
だけれど、この病気の症状のひとつである、「ルーティンが決まっていないと不安」というもののせいで、決まった時間に起床して食事、そして運動をする、という行動をこなさないと不安で、てきとうに過ごすことができないのだ。ぴいんと背筋を張った生活に、時々息苦しさを覚えることもある。
私はこの前、サマセット・モームの『月と六ペンス』を読み終えた。芸術に駆られた男、ストッリクランドは妻子を捨てることも厭わない、最低な性格をしていると思うのだが、芸術に対する想いは、ある種の「信仰」と呼べるほど崇高で、真摯なのだ。そこに一点のくもりもない。
私にも、そんな彼を突き動かしたようなモチベーションがあれば頑張れるのかもしれない、とふと思った。そうしたら、羽衣のようにふわりとこの病を飛び越えることができるのではないだろうか。
そうしたら、体重の増加にもいちいち動揺せずに、その事実を受け入れられるのだろう。
メンタルが左右されてしまうため、私はあまり体重を測らないようにしているのだが、さきほど測ったら体重が増加していて、森の木陰にひそんだ霧に包まれた気持ちになった。なんだか、どんより暗い気持ちだ。不快感とともに、「回復には正しいのだ」という気持ちが、揺れ動く。
それでも、しばらくは落ち込んだ気持ちの方が強かった。
そのことを父に報告したら、「何よりも嬉しい」と喜んでくれた。あたたかな毛布をかけられて、絵本を読み聞かせしてもらっている子どものように、たしかな愛情を感じて、どこか恥ずかしい、でも嬉しい気持ちがした。
誰かが喜んでくれるのなら、それでいいか、とも思う。何よりも幸せなことだとも。それだけで、なんと嬉しいことだろう。小踊りしたくなるくらいだ。
私が「嫌だなあ」と感じる思いは、きっと病気によるものだ。灼熱を帯びた小石のごとく、ちっぽけだけれど、確固たる意思をもった存在となるために、私は怖がってはいられない。絶対に、この不自由な生活から脱出してみせる。
そんなことを思った、夏も盛りを過ぎた日のことだった。
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