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ボクの中の鬼と八寸。

ぐうたら。

ボクはまったくの、ぐうたらである。
まったくもってスピード感がない。今の時代においては木偶の坊。

恥ずかしながら「働く」という事に疑問さえ持っている。

ぐうたら。

少なくとも自己イメージはソレだ。
ソレだった。

写真: 木の上で寝るのが好きである。


人間になりたい。

ボクには自己肯定感がない。
気がついた時にはどこを探しても持ってなかった。
選択してそうなった訳じゃない。過去を振り返ってみれば、原因はなんとなくわかるけど、いまさら騒いでもなにも変わらない。

自分で自分を認めることができない人が必要なのは、他者からの承認だ。
でないと、存在することができない。

小学生時代から無意識に、そして強烈に承認を求めていた。それはなかなかの地獄だ。
そういう者は地獄をさまよう餓鬼といえる。
でも餓鬼は人間になりたくて、とても純粋にその為の果実(承認)を探してさまようのである。

そのために自覚なく無理をする。
壊れるまでやる。壊れるまで我慢もしてしまう。ボクは壊れ倒れた。そして時間をかけて再生し、時間をかけてまた壊れる。を繰り返した。深くて重い泥の海を漂うことしかできない日々も経験した。

映画「千と千尋の神隠し」をみた時
カオナシは自分だと思った。



餓鬼もボクも消えるとき。

とはいえ、いいところもある。
誉められるためになんでも磨きに磨くのだ。
僕の場合ギターだったり料理だったりした。

それはもう無心にやり続ける。
悪くも作用するけどその欲求自体はとても純粋で力強いエネルギーでもある。

どこからどこまでか分からないが、料理をする事が「美味しい」をもらう為に必死でもあったし、料理をする中での新たな発見が、ただ楽しくもあったと思う。
ボクの中にいる飢えた鬼は「美味しい」を欲し、そのエネルギーに動かされて料理をしていると、必然的に経験は重ねられ気付きを得て料理を理解する。その事をボクは単純に楽しいと感じていたんだと思う。

でも、ある日飢えた鬼も、ボクもフッと消えたときがあった。その時は分からなかった。
それは後から感じた。

それがこの八寸と呼ばれる酒肴盛り合わせに関わっているときだった。



野におりる。


もともと洋食の出なのだが、一時期和食に興味を持ちお店を間借りして和食の定食や、酒場をやったりした。
その頃、野草や河原や野原に自生している、セリ、三つ葉、鬼クルミ、イチジク、たけのこ、栗などを採りに行くのも好きだった。
他にもあしらいで色々な野花や草木もよく採りにいった。

たくさんの野の物を集め、一つ一つ丁寧に調理し盛り付ける間、我を忘れて「何か」に動かされている感覚を覚えた。
餓鬼もボク自身もいない。第3の「何か」に。

それは気持ちのいい体験だった。
ただ食材を買ってきて料理するだけでは持ち得ない感覚。野におりて、色んなものを摘んだり採ったりすることで、その土地の風や匂いや温度みたいなものがお皿にのる。そんなふうに感じた。


自分へ。

ところがお店をたたんで、リアカーやキッチンカーで仕事を作りながら、これをコンスタントに続けて、しかも換金するのは難しかった。
結局キッチンカーにほぼ絞ることになったが、本当はずっとこれがやりたかったのを感じていた。

いま再び動画を撮るということで
和食を学び始めている。

今回はまた違う要素(撮影)が入ったので
残念ながら動かされているようには感じなかった。

しかし撮影を終えて編集しながら、他の感情が芽吹いたのを見た。
料理に没頭している自分の姿を観て、まるで自分の息子が一生懸命なにかに取り組んでいるかのように感じた。自分はこんなにも誠実に、切実に、料理に向き合っていたのか。

ぐうたら?

いや違う。ぐうたらなんかじゃない。
自己肯定をするのが苦手なボクが自然に肯定していた。

「がんばれ!」

と、もどかしさを腹に抱えながら映像の中にいるボクに心の中で小さく叫んだ。

まるで運動会で毎年ビリッけつの息子に
そっとそうするように。








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