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行動を宣言するか否か

こんにちわ。小学生に負けじと植えたヒマワリが芽を出し始めて「私でも花も育てられるじゃん」と小さな成功?を積み重ねているricoです。


何かしらの行動をする時に周囲に対して宣言するか否か。どちらも良いと思う。私自身はわりと



宣言せずに過去完了形で話す



ことが多いように思う。


と言うのも、何かの行動をしようとした時によく現れるいわゆる「ドリームキラー」とかの存在。足を引っ張ろうとしたり、無理だとか止めておけと言ってくる人。これ邪魔なんで。


ただ、長期化しそうなものは言う。今だと筋トレがそう。綺麗になりたいので筋トレしますわって宣言しているし、そうすることでサボれない環境を作っておきたかったから。


逆に短期的なことに関しては「こういうことやったから」で話を終えるパターンが多い。わかりやすいのはハンドメイド。私はジャンル問わずでそのときに作りたいものを作るので、宣言をすると足かせのように感じてしまう。


例えばポーチを作ろうとしたとき。


自分の頭のなかではもう出来上がっていて、それを具現化するだけなのだけど「こういう色はどう?」とか「これくらいのサイズがいい」とかを作り出す前に言われてしまうと、それは「私の作りたいもの」ではなくなってしまう。


人に何かを作るときは事前に聞くのだけど、手芸をしない人はわりと無茶振りしてくることがある。物理的に可能であっても、手持ちの資材や自分の技術で事足りるかどうかは別問題。


それに対して応えられないとネガティブになってしまうので宣言はしないようにしている。バリエーションを増やす意味では聞くこともあるけれど、それですら布を見た時点で頭のなかで出来上がっているし参考になることは少ない。


検定などの勉強に関しても、わりと「検定受かったから」くらいのニュアンスで話すことが多い。それについて色々聞かれると少しイラッとしてしまう。知らないから勉強してるんじゃん、知りたいなら自分で調べてよって。


私にとっては検定はいわゆる脳トレの位置付けなので、それを取ったから履歴書にどうのとかはあまりない。雑食だから受けてるジャンルもバラバラだし、あえて履歴書に書かないことの方が多かったように思う。


QCとか持ってるけど、品質保証には行きたくないから書かないみたいな。


検定のことは特になぜか馬鹿にされやすいと感じる。そんなの受けても無駄だとか、何とか協会の思惑に課金してるとか。


でもそれってその人の「やらない言い訳」であって私には関係ないし、私は色んなことを浅くでもいいからたくさん知っておきたい。否定的な意見を聞いてしまうとやる気もなくなるし、その嘲笑うかのような発言をする人そのものが嫌いになってしまう。


そもそもそんな人身近に置きたくもない。


わりと夫がドリームキラーで。何度もそういうことを言われてやる気が削がれてしまったり、諦めてしまったりした過去がある。


変に励まされるとかも嫌だし、変に色々聞かれるのも嫌。ただ黙って見守っててくれればいいのに何とかその話題にのってきたいのだとは思うけれど。わりとちょこちょこイラついていた。


だから過去完了形で話すようになったのだと自分では認識している。その方が私自身楽だしストレスもたまりにくいから。


ただ、そうなると勉強時間の確保が非常に難しくなる。今はアプリも優秀だからよく使っているのだけれど、やはり携帯で解くのと本を見ながら解くのでは頭への入り具合が違う。


そこを上手くやってのけないといけないのだけれも、なかなか時間は思うように取れない。そういう意味では宣言をした方が楽なのだろうし、堂々と時間を使えるメリットもあるのかもしれない。


何か行動しようとしたとき、宣言するか否かは相手次第なのだろう。応援してくれる人であれば私は普通に宣言するし、そうでないと判断すれば言わない。何なら完了形でも言わない。


そういうことを言うとき、わりと相手の本性が見え隠れするからそれが怖いのかもしれない。この人こんな性格だったのかと一人で勝手に落胆してしまうのが嫌なのだろう。


そう考えると私自身もまだまだ先入観で人を見すぎているのかもしれない。

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