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未来の話をしようか

「加齢と健康」という単元を教えるにあたり、
ピッチピチの高校生たちに、歳をとったときのことを話す無理難題。

今を生きるのに精一杯な高校生たちに、学校はいつもやれ未来のためにと
先のことを考えさせる。
そういうところなんですよね。学校って。そら、行きたくなくなる(笑)

自分が持つ権利や、自分の身体のこと、自分の心のこと、
お金や、死について
まともに教えてもらえないけど

他国の言葉や文化なんてのは本当に熱心に教えてくる。

読み書き計算はいいとして、
もう少し、自分のことについては教えてもらえないのだろうか、なんて思ったりもする。
教えておいてなんだがね。

さて、「加齢と健康」っていう、今高校生の時分で健康管理もなかなかできていない状況の中、
「老いるよ、元気で老いてね」っていう授業をする。

無理難題以外の何者でもないだろうよ。


おわかりいただけただろうか

この写真を1枚ずつ見せて、おばあちゃんの年齢を当てさせる。
上と下でおばあちゃんの年齢は一番差がない回答では10歳も違わない。

ところで右の人間を見て欲しい。
おわかりかと思うが、同一人物である。
9歳から35歳へと成長を遂げている。

26年間

この年月は2人にとって全く平等に流れる時間であるが、
どうだろう。
こどもだった私は、社会人へと成長した26年間であった一方で、
おばあちゃんはおばあちゃんで在り続けた。

そう。
若者が思っている以上に、人生は老年期に占拠されるのだ。

ちなみに余談だが、下の写真は5年前に撮った写真で、おばあちゃんの100歳のお祝いだった。
今もご健在で105歳だ。凄い!!

そんな話を高校生にすると、違う意味でのざわめきが起こった。
確かに100歳はすごいし、105歳って凄すぎる。

そうじゃなくてね。
え?この時35歳?え?いま・・・え??40歳??
っていうざわめき。
童顔の極みで、20代後半くらいに思われている・・・。

喜んでいいものかちょっとわからない。
若く見られることは嬉しいが、人間としての深みが足りないということでもある。

まぁいいや。

さて。

2050年がどうなっているのだろうか、という話はあちこちでされるわけだが、
未来の予測なんてあくまで予測ではない。
しかし、2050年のことについて、唯一、人口動態だけは予測可能なのである。
いま、0歳が100人いるのなら、26年後、26歳は100人以上いることは有り得ない。それは確かなことである。

なので、未来の話をするとき、人口がどうなっているかが根拠になって、その人口で起こり得ることを、今まで起きてきたことを元に予測をしているに過ぎないということ。

国土交通省が提示したデータ

上記の人口動態から言えることは
いま2024年現在、大人である私が40歳
いま2024年現在、高校生である子達が2050年、43歳前後になる。

その視点で見ると、私が置かれている社会状況(2024年現在)と
彼らが置かれる社会状況(2050年)は生産年齢人口が明らかに違うのだということ。

少し時を戻して、
私が高校生であった2000年に40代であった大人たちの生きていた状況と
今、40代の人生をスタートさせた私の状況もかなり違う。

国土審議会政策部会長期展望委員会より

人口がどんどん増えていく世の中で働いてきた人々から教育を受けた私たちは、人口が減ることしかない社会へと放り出されたわけである。

だから、大人の言うことを聞いたところで・・・
上司の話を聞いたところで・・・

もちろん、人間として教わることは普遍だが、社会のなかで稼いでいくという視点では、実はロールモデルがいないという時代を生きている。

これを自覚しているかどうかと言われたら、正直自覚のないままガムシャラに生きている人が多いのだろうと思う。

そして、今の高校生たちも、さらに人口が減っていく社会で生産年齢人口の割合が減少していくという、これまた私たちがロールモデルになれない世の中になっていくわけだ。

2050年、私は66歳になる。解説しながら、
「申し訳ないけど、私はこっち(高齢人口)の分類に入る人になります、みなさんさようなら」と笑いをとったが、

てなったらさ、「元気に生きて世の中に貢献してくれよ」って思うのでしょ?

という言葉は、高校生を赤べこに変える魔法の言葉となった。

ちょっぴり乱暴な導入で、「加齢と健康」について学ぶ価値を認識させて、
話すことと言ったら、
人は歳を取れば、落ちていく機能があるよ。
生活習慣の積み重ねによって、維持もできるんだから、健康に生きて、社会の中で生きて、死ぬまで活力溢れた人生を送ろうね、ということである。

要介護の人口を減らす、抑える
これが国の本音だろうと思う。

ここまでは、この単元で教えなければならない話をしていたが、

私がしたい未来の話は、私の未来についてである。
すなわち、今40代とノリにノッてる皆さんにとっても同じ未来だと思う。

この授業のリフレクションには何人もの生徒から「先生はどんなおばあちゃんになりたいですか?」と逆問された。

1人ひとりに真剣に返すのが私の信念だが、それを繰り返しているうちに、未来の話をしたくなったので、ここに書いている。

前置きですでに2000文字を超えているのだが(笑)

実を言うと、私は今の仕事をいわゆる定年まで続けようと思っていない。
単純に想像できないからである。
この授業をするにあたり、2050年の未来について少し勉強したことによって
何が想像できないのかがわかった気がする。
それが、「ロールモデルになり得ない自分」だったのである。

教師やりたい、なんて思うくらいだから、一応、人間として手本になりたいという志はちゃんと持っている。
でも、なれないということがわかっている。
今の自分がそうであるように、この人のように生きていけば大丈夫だ、ということはない。
それなのに、学校という場所はお節介にも、先輩面で進路指導なんてものをするわけで。
そういうギャップにいちいちモヤモヤして、続けていける気がしない。

では、何をしていきたいのか、ということを考えた時に、
「高齢者のロールモデルになればいいのではないだろうか」という気持ちが舞い降りてきたのである。

はて?何をして?どうやって??(笑)

もし100歳まで生きる人が増えれば、40年弱、まだ人生がある。
その40年をどうやって生きていくかということを考えた時に、今のおばあちゃんたちの生活を当てはめるわけにはいかない。
母ですら、私の時はそうしないだろう、と見ていて思う。

もう40年、社会に貢献しながら生きてやる。

そう思った。

そう思ったので、その準備を50代突入するあたりからしていきたいと思っている。
自分の年代をターゲットに様々な企画を打って、
学びと健康を提供していきたい。
そんなことを漠然と考えた。

未来はなかなかに厳しく見えるが、
私はそうでもないと信じている。

今、私が高校生に伝えたいことは、自分の未来は自分の思うように創造していく必要があるということ。

私が育った頃に見せられていたレールは、
まだ大人たちには見えているのかもしれないが、
今の高校生たちにとっては幻想のレールで、そのレールはどこに向かっているのかも正直わからない。

安定志向の世代が今の高校生たちの親世代になるため
進路決定における家庭内バトルは熾烈を極める。
親はどうしても守りたくなるし、
子どもにとっては、うんざりすることだらけなのであろう。
それでいて、自分で決めなさい、と学校では正解しか教わらないのに、急に答えはあなたが作ります、っていう方向転換をされて、
理不尽極まりないことだろうと思う。
そうして、自分で悩み抜いてもがいて進路を決定しようとするラスボスに安定志向の親の意見。

これはなかなかハードであるに違いないと思う。

ただし我々大人は、自覚しなければいけない。

私たちが生きた人口動態の社会は
若者が生きる頃には存在していない

という事実。

私たちはロールモデルになれない。

それを自覚し、自分の健康をつくることに尽力し、
自分の30年後の未来を、
高校生が進路決定すると同じ熱量で考えて
学び続けて努力する。

それは辛いことなのだろうか??

私は、けっこうワクワクしているし、
やる気が出る。

死ぬまでチャリで駆け抜けてやるという気概に溢れている。


しまなみ街道、間違えて1日で走り抜けた

70歳になったら、チャリで日本全都道府県を旅しようと思っている。
その頃には、何が起きても動じない、器のデカイ人間になっていると予定している。

頑張ろうと思う。


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