「こんにちは」とは存在確認であり、存在証明でもある
みなさん、こんにちは。急にあらたまってあいさつされると、なんとなく身構えてしまう、不思議なあいさつ「こんにちは」。訪ねていった玄関の戸口で家人が出てこないときに「こんにちは〜!どなたかいますか?」と聞きます。ちなみに「こんにちは」は、大声で「こーんにーちはーー!!」というと漫才のつかみにも使えてしまうという、不思議なポテンシャルを持つ言葉でもあります。
今日は、使いそうで使わない、いざ使おうとすると使い道が限られる不思議なあいさつ言葉「こんにちは」を味わってみたいと思います。
定義、のようなもの
日中に使われるあいさつ言葉。語源は会話冒頭の「今日は〜」からきているという説が一般的。
聞いた場面(採取した場面)
私は日本語教師をしていますが、生徒たちは初級でこの「こんにちは」を習います。しかし、初級を終えていざ日本での仕事に備えてビジネスレベルの会話を身につけようという段になって初めて、教師から「実は、“こんにちは“という挨拶はあまり使いません」と聞かされる時の生徒たちの戸惑いを考えると、なんだかいたたれません。
通常、職場で「こんにちは」の代わりに使われるのは「お疲れ様」です。でも朝の「おはようございます」だけは毎日使いますのでよろしく。なので、「こんにちは」はなるべく使わないよう注意してください、などと聞かされた日には、もう一体何を信じていいのかわからなくなること請け合いです。
日本語教師としては、「あのね、こうした不条理を受け入れてこその日本語学習者なんだよ」と、あれこれ説得してはみるものの、もとより母語話者である私はこの不条理に、ただ麻痺しているだけという現実も一方で認識しているのです。
本当に、日本語の「こんにちは」は奥が深い、そしてなんだか残酷です。
さらに味わってみる
さらに考えてみると、冒頭の定義でも述べたように、この言葉はもともと「今日(きょう)は-」という会話冒頭の一言なのだとか。「今日は暑いですね」、「今日は寒いですね」という言葉の冒頭部分だけが一人歩きして、ソロで挨拶言葉になってしまったのだそう。
加えて言うと「こんにちは」は、助詞が「は」である点が、実はけっこうミソなのです。例えば、「今日に-」「今日で-」「今日を-」などと別の助詞を使ってみると、どうでしょう。「今日」の表情がガラリと変わります。
「いっそ“今日に“しませんか?」となれば何かのアポイントの理不尽かつ急な変更となり、「“今日で“終わりにしましょう」とくれば何やら悲しい別れ話に、「“今日を“生きよう」となれば刹那的な若者たちの叫びとなります。
では、改めて「こんにち“は“」ではどうでしょうか?「とりたて助詞“は“」の持つ、「話の主題を提示する働き」が発動し、あら不思議。おしゃべりのちょっとしたきっかけになるではありませんか。「今日で」「今日を」となると話題が狭まっていくイメージがある一方、「こんにちは」には互いの関係性の無限の広がりを予感させます。ほんと、「こんにちは」は奥が深い、そして不思議な魅力に満ちています。
さらにさらに味わってみる
さらに漫才コンビ錦鯉の長谷川さんの冒頭の掴み「こーんにちわーーー!!」ではどうでしょうか。これはもう単なる挨拶を超越しています。
考えてみれば、錦鯉の漫才のネタの冒頭、スキンヘッドの中年の男性が舞台上で眉間に皺を寄せつつ、中腰で、両手を振りながら、ある種の悲壮感も漂わせて力一杯発せられるこの「こんにちは」からは、こんな気持ちを感じ取ってしまいます。
「私という人間が、今漫才の舞台に立ち、今日笑ってもらえるかどうかもわからないのに、何も持たずに今サンパチの前に立ってネタをはじめようとしています。これまで、食えない日も、ウケない日もありました。それでもお笑いを続けてきました。M-1優勝も、舞台の上では関係ありません。ウケなくなればそれで終わりです。そんな覚悟で今、この舞台に上がってきています。みなさん!こーんにちはーーー!!」
何かのバラエティで、この錦鯉のツカミ「こんにちは」は、古(いにしえ)からある挨拶言葉をただ漫才のツカミにしているだけだ、とツッコまれてましたが、いやいやとんでもない。錦鯉の「こんにちは」はお笑い芸人として、いや一人の人間としての存在証明であり、悲痛なそして勇敢な叫びなのです。
いや、知らんけど。
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