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#映画レビュー 「男はつらいよ お帰り寅さん」

週末、Amazonプライムで「男はつらいよ お帰り寅さん」を見た。

本作は、寅さんシリーズ最終話にして、壮大なネタバラシになっている。なにしろ「寅さんとは何者か」という謎に答えているのだから。

50作目にしてやっとわかった。寅さんとはピーターパンだったのだ。

その出で立ちは、実のところ本物の露天商そのものとも言えない。どこからかふらっと帰ってきて、またいなくなる、実体の乏しい存在感。リアリティーがない。しかし、それでよかったのだ。そのふんわり加減が、だれからも愛される国民的キャラクター「寅さん」としてちょうどいい塩梅だったのだろう。

本作では、実在の人物なら話されるであろう本人の生死、近況などは語られない。みんな寅さんについては、遠い昔のことのようで、最近のことでもあるような微妙な言い方だ。

組織や家庭に縛られず、仕事もほったらかして旅に出る。けんかをしたければ大声で暴れ、それでいて誰からも愛される。お金だって、時々さくらに無心してはいるが、いったいどうやってやりくりすれば、あんなふうに旅から旅で生きていけるのだ。

そうなのだ。そんな人間はどこにもいない。だからこそ、人々は現実に引き戻されることなく、興ざめすることもなく、映画館で泣き笑いできたのだ。

この映画の舞台は、「とらや」の居間という狭い空間で一緒に笑い、ケンカし、急な来客に嫌な顔ひとつせず、お隣さんとも壁一枚、誰の手にもスマホもない、世界のどこにも存在しない「葛飾柴又」という名のネバーランドだったのだ。そして、50作も続いたこの作品は、コメディであり、ファンタジーだったのだ、と気付かされた。

しかも、本作は過去の名作へのオマージュに満ちている。低いカメラアングルから居間を撮る小津安二郎の手法。ラストのヒロインとのシーンを繋いで見せる部分も、「ニュー・シネマ・パラダイス」を思い出した。考えてみれば、映画の原型になった「キネトスコープ」は幻燈と呼ばれていた。映画とはそもそも白昼夢、共同幻想なのかもしれない。日常から解き放たれ、暗い映画館の中で見る白昼夢。

長い夢から覚めるのはやや寂しい気もするが、しかたがない。でも寂しくなったらいい方法がある。

「困ったことがあったらな、風に向かって俺の名前を呼べ」

そうすれば、そこは「葛飾柴又」だ。そして、路地から雪駄の音、そしてあの声が聞こえてくる。

「よお、相変わらずバカか?」

#映画レビュー #コラム #毎日note #エッセイ

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