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kabanagu「ほぼゆめ」:ノスタルジーを断ち切る

2020年代における「エレクトロ」ミュージック___電子音を用いた音楽という意味での___の旗手・kabanaguが昨年発売した1stアルバム「泳ぐ真似」はハイパーポップをはじめとしたインターネットミュージックと共鳴した息をつく間もない7曲11分で、DAWに身体を埋め込んだようなサウンドデザインは新時代の到来を予感させる作品であった。アジカン・後藤氏が主宰するAPPLE VINEGAR-MUSIC AWARD-においてもノミネートされたり、SNSの反響を受けてレコードが発売されたりと2021年を代表する1枚といっても差し支えないだろう。

そして2ndアルバムとなる「ほぼゆめ」が6月29日に発売された。

ところで、「あの頃」に聴いていた音楽を改めて聴くとどこか胸がささくれ立つような、くすぐったくて胸が締め付けられるような感覚に陥る。「あの頃」に聴いていた音楽というとわたしにとってはRADWIMPSやBUMP OF CHICKENがそれに当たる。リアルタイムという訳ではないが、TSUTAYAや図書館で借りて聴いた「絶体絶命」を、「ユグドラシル」を、「RADWIMPS4~おかずのごはん~」を聴くと色々な思い出がフィードバックする。共通するのはメロディーの持つ'青さ'だろう。素直さ、順従さと捻くれた感性や自意識が混同したまま進むメロディー。60,000人のグラスステージでシンガロングを巻き起こしつつラジオの向こうで耳を傾けるひとりの孤独に入り込むメロディー。相反する要素が混じる様子は「苦いけど 苦しくはない」「酸っぱいけども 悪くはない」とRADWIMPSが『君と羊と青』で歌った通りである。

こういったエモーショナルな文章を書きたくなるほどにkabanaguの最新アルバム「ほぼゆめ」は聴く者の内側を掻きむしるようなノスタルジーを喚起する。M1「いつもより」におけるRei Harakamiを思わせるコロコロとした電子音が揺蕩う様、M4「ばね」のメインリフを担う鍵盤ハーモニカらしき音、M5「騒ぐ日」における「古いMP3で 埃が揺れてる それだけ」といった歌詞。アルバムの後半には打ち込みで作成されたであろうギターサウンドが立ち現れ、より「あの頃」の邦楽ロックへと近づく。M6「着いたら」、M8「それでは」において曲が始まった瞬間からギターのアルペジオと歌唱が同時に始まり、少し経ってバスドラムが四拍子でバスドラムを鳴らす構成はRADWIMPSの幾つかの曲が思い浮かぶ。また、ペリカンファンクラブや残響系のオルタナバンドも好んでいるらしく、アルペジオのフレーズもそういったバンドからの影響が感じられる。

とはいえこうしたノスタルジーを喚起させる、あるいは懐かしさや思い出にふけさせるような要素はあくまで装飾でしかない。本作の魅力はそうしたノスタルジーを断ち切り、切り裂いていく様である。M2「いつもより」では「悲しいことがいっぱい」という歌詞に合わせプリズマイザーと呼ばれるプラグインを用い複数の歌声が数秒の間不協和音とノイズ交じりのハーモニーを生み出す。段々と音色が増え、少しずつ音が重ねられていくような展開に突然挟まれる意図された違和感。M4の後半においても再生機器が壊れた様を表現するような重低音と重厚なシンセサイザーの音で彩られた数秒間が立ち現れるし、M6「着いたら」も最後のスネアの音の連打と叫び声が曲全体のテンションを塗り替えている。最終曲「熱気」においても「さらば悪い夢」とどこまでも伸び行く声で歌ったかと思えばまるで悪魔の合唱のようなクワイァを重ね、不穏さを醸して作品自体を終わらせる。DAWによって生成されたサウンドが喚起されたノスタルジーを断ち切っている。

タイトルの「ほぼゆめ」であるが、kabanaguがインタビューにおいても「インターネット・オタク・ドリーム」という言葉を使っている通り、インターネットという空間を一種のユートピアである「夢」として解釈してることが伺える。現実という時間軸における「あの頃」を想起させるノスタルジーをアルバム全体に纏わせながら、それをデスクトップでしか生み出せない電子音で塗り替えている、というのは先ほど述べた通りである。現実のその向こうであるインターネットへの信頼と期待はSNSにどっぷり浸っている我々と強く共鳴する。そしてこれを聞いていた夏も思い出になってしまう。



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