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メディアアートの批評性

芸術の役割は、美と批評性にあります。批評性は、既存の概念や状況を客観的な視点から見つめ、新たな視点で物事を評価する能力を指します。つまり、状況を一歩引いた目線で物事をとらえ答えることです。

例えば「タバコは悪だ」と決めつけて文化全体を否定してしまうと。歌劇「カルメン」がたばこ工場の話であったり、アニメキャラクターのドロンジョ様(ヤッターマン)が煙管を持っているのも、その昔、煙管と女性の文化的に繋がりがあることの象徴的な引用である。これらの文化を否定してしまいます。大多数の意見は一度カッコにいれて、状況を客観的に問う態度が大切でしょう。
次に自分が専門的に扱うメディアアートですが、現在、現代アートとの差がなくなりつつあり、多くの現代アートのアーティストが映像やゲームエンジンを使って作品をつくり始めたため、その違いが分かりづらくなりました。
ここで一度整理してみましょう。

メディアアートと現代アートは、社会を批評するという点で同一の批評対象を持っていますが、特性に置いてやや異なる批評の対象を持ちます。
メディアアートはメディアの技術にフォーカスしテクノロジーとメディアの進化に対する批評を提供します。一方、現代アートは社会の側面に焦点を当て、文化、政治、倫理などに対する批評を通じて社会に影響を与えます。
絵画は絵画がな時代に教会に登場した時に強力なバーチャルリアリティーとして鑑賞されたし、写真も写真が無い時代に大衆に驚きを与えた。
現在は、55inciディスプレイがあったときに、絵画の事例からディスプレイを壁にかけるものという一般的に概念がある。それを床に置いたり、投影面を壁側に向けて置いたりしたときに、通常ではない使用方法をした際にそのメディアの特徴が標的に立ち上がる。これがメディアアートにおける批評性です。
しかし、スマートフォンが登場した際に、床に置いたり、投影面を壁側に向けて置くことは普通なので、そのような設置方法はあまり批評性を持たなくなります。メディアアートの手法が多くの人の手で社会に浸透し、一般的になると、本来持っていた批評性が失われると言えるでしょう。つまり、本来メディアアートは寿命が短いのです。

現在、プロジェクターを使って大がかりなプロジェクションマッピングや、インターラクションを駆使した作品を見かけますが、使いこまれた技術で作られているものにおいては、メディアアートの批評性は帯びません。先に述べた、映像やゲームエンジンを使った現代アートは社会的批評を帯びるかもしれないが、手法において批評性はないのです。

私が通った大学のコースは表向きには映像コースと記載され、英語表記はMedia Artでした。近年メディアアートが大学のコース名にそもそも定着しましたが、先に述べた考え方では一般に定着したなら、それは表性を失うのですから、現在のメディアアートコースでは批評的なことは学べないのでしょう。

批評性が失われていたとしても、美学的は別ですから、クラフトワーク(洗練された技術)として、これからは美しいものが作ればよいでしょう。また、現代アートの領分で社会の側面に焦点を当てればいいでしょう。メディアアートではないだけなのだから。

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