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京都旅番外編~圓光寺に眠るマレーシアの王族・サイド・オマールさん(後編)


【前編までのあらすじ】

「そうだ京都行こう」でよく取り上げられる美しい庭が有名な瑞岩山圓光寺。徳川家康の命で開基された圓光寺には、石庭の奔龍庭、紅葉の季節は特に美しい十牛之庭、円山応挙の筆による「雨竹風竹図屏風」など日本的な美しさに満ち満ちている。
その圓光寺には、マレーシアの王族・サイド・オマールさんの墓所がある。
お参りするために後輩二人と圓光寺を訪れたのだった。

ちなみに後輩はずっとサイド・オマールさんの名前をミュージシャン「ドン・オマール」だと勘違いしていて、恥ずかしい思いをしたそうだ。

【アスジャインターナショナルで聞いた南方特別留学生の話】


東京オリンピックに際して、アスジャ・インターナショナルの研修にご縁があり参加したことがある。
「ASJA (Asia Japan Alumni) International」とはASEAN10カ国からの文部科学省国費留学生の受け入れを行い、また日本の大学での学習支援を行っている組織である。関わった学生が将来日本とASEANとの「架け橋のリーダー」となることを目指して交流を促進する素晴らしい組織である。


サイド・オマールさん、そして「南方特別留学生」について知ったのはその研修でのお話だった。

【南方特別留学生とは】

「南方特別留学生」とは、大東亜戦争中に東南アジア各地のエリート層を日本で教育しようとした制度である。
その実態については9名の南方特別留学生の聞き込み調査をまとめた「南方特別留学生が見た戦時下の日本人」(倉沢愛子著)に詳しい。
表紙は留学生の運動会の写真で、南方の風貌の少年たちが騎馬戦をしている面白い光景だ。

味噌汁が飲めなかったのに来日してから好きになったり、日本が性に合いすぎて母国に違和感を覚えるようになったりと印象深いエピソードもまとめられている。
南方特別留学生には奨学金も渡され生活に困らないようにされたり、と物資不足の時代にしては配慮されていた。生活環境の差など苦しいこともあったが、日本敗戦の後も縁が続いているのだから、かなり本気で日本政府も推進した事業だったのだろう。

【南方特別留学生が現在もつなぐASEANの絆】


ちなみに南方特別留学生の総数は205名で、昭和18年(1943年)の第1期生は104名、昭和19年(1944年)の第2期生は101名。すべて男子で高等学校在学者・卒業者から選抜されていた。
ちなみに出身地の内訳は以下のようになる。

フィリピン  51名
ビルマ    47名
ジャワ    44名
スマトラ   16名
マライ    12名
タイ     12名
セレベス   11名
南ボルネオ  7名
バリ・セラム 3名
北ボルネオ  2名
 
この留学生たちが昭和49年(1974年)に福田赳夫大蔵大臣(当時)の呼びかけで始まった、外務省招聘事業「東南アジア元日本留学者の集い」に集まった。そして、ASEAN(東南アジア諸国連合)各国の元日本留学者同士の交流を目的として、昭和52年(1977年)にASCOJA(アスコジャ ASEAN Council of Japan Alumni アセアン元日本留学生評議会)が設立された。
そしてこのASCOJAが、アスジャインターナショナルの事業につながっている。南方特別留学生の縁が、ASEANと日本の絆を支えているのだ。
 

【マレーシアから来たサイドオマールさん】


 南方特別留学生の一人、サイド・オマールさんはイギリス領マラヤのジョホール州王族の出身であり、昭和18年に第一期生として来日した。

前列真ん中がサイド・オマールさん

オマールさんの残された写真は優しそうで文学者のような印象を受ける。
実際にオマールさんは日本語が達者で和歌も嗜まれたという。
オマールさんは、広島高等師範学校を経て昭和20年5月に「旧制広島文理科大学(現広島大学)」に進学した。
「昭和20年」「広島」と聞いて嫌な予感がされたかと思う。
昭和20年8月6日朝、オマールさんは爆心地から900メートルの留学生寮「興南寮」にて被爆した。
背中に大やけどを負うも、倒壊した建物の下から自力で脱出し、留学生仲間と共に被災者救援に尽力した。
一緒に野宿をした人たちの証言によると、オマールさんは自身も怪我を負っているのに、大八車に友人を載せて20キロも離れた親せき宅に送り届けたり、少ない食べ物を子どもたちに分配したりと献身的な姿が印象的だった。

日本敗戦により、占領軍から8月25日に帰国許可が下り、東京経由でマレーに向かうことになった。しかし汽車の中で悪寒を覚えだし、26日京都到着後に病状が悪化する。
8月30日には京都大学病院に入院したものの、原爆症患者をどう処置すれば良いのかわからず、とにかく輸血をするしかないと決断する。
しかし終戦直後で輸血用の血液は足りず、担当した濱島義博医師はなんと自身の血をオマールさんへの輸血に使用し、献血の量が多すぎて濱島医師の身体が限界になるほどだった。

濱島医師は衰弱するオマールさんに「日本にさえ来ていなかったらこんな苦しい目にあわなかったのに・・・。オマール君、君は日本人を恨んでないかい?」と思わず聞いたという。
するとオマールさんは「先生は毎日僕に血を分けてくださっているでしょ。先生と僕はもう兄弟です。僕の身体の半分はもう日本人です」と答えたのだった。
オマールさんはもうこれで最期になると悟っていたのか、好きだった童謡を歌ってくれるように濱島医師に懇願した。
「ドクター、夕焼け小焼けを歌ってくれますか」
「夕焼け小焼けで日が暮れて・・・」と歌い出す中で、オマールさんはとうとう力つきたのだった。
昭和20年9月3日、19歳の早すぎる最期だった。

濱島義博医師は病理学の大家として後進の育成に尽力したが、必ずサイド・オマールさんのことを伝えて慰霊を欠かさなかった。

【サイド・オマールさんのお墓を護る京都の真心】


 イスラム教徒は死後24時間で埋葬されなければならない。
 オマールさんの遺体は南禅寺大日山の共同墓地の墓にイスラム式で葬られた。
 しかし、昭和32年(1957年)にオマールさんの妹さんが訪れたものの見つけられないほど朽ちていた。
 それを聞きつけた京都洛北平八茶屋主人の園部英文氏が「これは京都の恥だ。立派な墓を作ってあげたい」と墓の建立に動き出した。英文氏の弟で京都市観光局に勤務していた園部健吉氏が奔走して神戸ムスリム・モスク幹部のスタコフ氏、嵯峨野の石材店石寅の協力を得ることができた。そして、親交のあった「圓光寺」に昭和36年(1961年)にイスラム教式の墓標が建てられたのだった。
 京都で亡くなった異国の青年を、京都の人々が護ってきたのだ。

お寺の裏にサイド・オマールさんのお墓はある。

純和風の境内の中にイスラム式の墓は目立つ。
碑文は武者小路実篤が「君はマレーからはるばる日本の広島に勉強しに来てくれた。それなのに君を迎えたのは原爆だった。嗚呼実に残念である。君は君のことを忘れない日本人あることを記憶していただきたい」と書いている。
ちなみに私の曽祖父、曾祖母は広島原爆投下時に、広島と近い横川で働いており、原爆投下後の救援活動に行った曾祖母は入市被爆してしまった。サイド・オマールさんとそれほど年は離れていなかったと思うが、なんだか他人事のような気がしない。
サイド・オマールさんが生きていたら、私の曽祖父・曽祖母と同じくらいだったのだろう。

サイド・オマールさんの早すぎる死、そして「僕の身体の半分は日本人です」と死の床で気丈に話す姿は涙を誘われてならない。その思いは今も生き続け、南方特別留学生と共に現在のASEANとの絆を護っているのである。

ぜひ京都に訪れた際は圓光寺をお参りしていただきたい。そしてできれば境内の奥のサイド・オマールさんのお墓をお参りしてほしい。
武者小路実篤の「君は君のことを忘れない日本人あることを記憶していただきたい」を本当にしていただきたいと思う。

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