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京都旅番外編~圓光寺に眠るマレーシアの王族・サイド・オマールさん(前編)


【誰もが必ず見たことがある圓光寺】

4年前(令和2年)の冬のことだった・・・私は後輩を二人引き連れて京都の「圓光寺えんこうじ」に向かった。
ややこしいことに「圓光寺えんこうじ」という寺は京都に複数ある。
向かったのは一乗寺の「瑞巌山 圓光寺ずいがんざん えんこうじ」である。

「へー、そんなお寺があるんだなぁ」と思われるかもしれないが、おそらく皆さんは圓光寺を「そうだ京都行こう」のポスターやCMで見たことがあるはずだ。

屋内の陰翳も庭の明るさもたまらなく美しい

「あ、見たことある!!」と思われたのではないか。
圓光寺は、庭がとんでもなく美しいのだ。


だが、今は冬で、紅葉も緑も無い季節。
何を目当てに京都の外れの方にある圓光寺へ向かうのか。

目的はマレーシアの王族・サイド・オマールさんのお墓参りだった。
京都に何故マレーシアの王族の方が葬られているのか。
答えはあとに回すとして、3人がまず圓光寺に向かうまでを見ていただきたい。

【叡山電車からレトロな町並みを歩いていく】

叡山電車の「一乗寺」駅で下車する。
叡山電車はレトロな車両で、割と辺鄙なところへ連れて行ってくれる。
私が前に貴船神社から下山するときにも利用したのが「叡山電車」だったことを覚えておられるだろうか

とても可愛らしい車両

二人に「一乗寺とか来たことあるの?」って聞いたら「ラーメン食べに来ましたね!」と即答される。
このあたりは天下一品の総本店があり、京都ラーメンの一大拠点だった。いやー勉強になるなぁ~

ちなみに「一乗寺」駅から圓光寺までは10分強ほど歩かなければならない。

ただその道程はレトロで、また歴史ある名所ばかりですこぶる楽しい。
まぁ言ってみれば京都はどこでも歴史があるんだけど・・・

お、なにか見つけた!!
無茶苦茶古いオロナミンCのポスターが貼られた旧家
「日の本タビ」「仁丹体温計」なんでこんなレトロ広告ばかり

路傍を見てはバシャバシャと撮影しているので、何を撮っているのか思ったら激レア・レトロ広告でびっくりした。
京都の町にレトロ広告は面白い。

【終戦をまたいで仰がれた大楠公(楠木正成)戦陣蹟】

突如現れるしっかりとした石碑。
大楠公戦陣蹟だいなんこうせんじんあととある。
「逃げ上手の若君」にも登場する楠木正成公は、かつて「大楠公」と呼ばれ国民的な崇敬を集めていた。
天才的な軍略家でありながら、献策が却下されても敗北必至の湊川へ向かった姿は、強い者とは何かを日本人に問い続けてきた。
その楠木正成公が足利尊氏を追撃するために建武3(1336)年正月に陣をはった場所だという。

建立されたのは昭和20年5月25日とあり、大東亜戦争終戦3ヶ月前。5月25日は楠木正成公が湊川で戦死された日と伝わる。
そして、隣の副碑が建立されたのは昭和20年11月とあり、終戦3ヶ月後。
敗戦間際の苦しい状況での「5月25日」に、また敗戦後の再出発に楠木正成公を拝したのではないだろうか。

【宮本武蔵の決闘場・一乗寺下り松】

すぐ横に「宮本武蔵」と書かれている看板が目立っていた。

「一乗寺」と聞いて、「あれ?なんか聞いたことあるな」と思っていたが、吉岡一門と宮本武蔵の決闘場か!!

「バガボンド」で見たのもこのあたりなのか!!
漫画や小説だと1対70で壮絶な戦いを繰り広げていた。
創作も多分にあるとして、火のないところに煙は立たないし、おそらくここで何かがあったのだけはわかる。

【冬でも美しい圓光寺】

ぐたぐた歩いていくと「圓光寺」の前まで来ていた。
徳川家康により慶長6年(1601年)に「伏見学校円光寺」として建立されたのが始まり。最初は学校として始まったという面白い寺である。


大人500円の拝観料を納めて進む。
冬のためあまり期待はしていなかったのに、冬は冬でお庭は美しかった。

見事な石庭 奔龍庭
枯れ木が映えるお庭・十牛之庭
文化財が外気に晒されている!!

境内には円山応挙まるやまおうきょの作品もあり、美しいものが好きな人にはたまらない空間だろう。
しかも、厳重な警備がついているわけではない。執着する心を笑うように、ぽんと置かれていたりする。

それほど高所ではないが、京都を一望することができる。

さて、ここまでひっぱってきたが、京都の圓光寺とマレーシアの王族の関係は何だろうか。
それは戦争中の「南方特別留学生」に秘密がある。

後編へ続く

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