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原爆投下の日を前にして:丸木美術館で『原爆の図』を見てきました

先月、埼玉県にある「原爆の図丸木美術館」に行って来ました。丸木位里・俊夫妻によって描かれた『原爆の図』が展示されている美術館です。あまりにも有名なこの作品を私はこれまで実際に見たことがありませんでした。一度は見ておかなければいけないと思い足を運びました。

美術館の入り口

丸木位里さんは広島の出身です。1945 年 8 月 6 日に 広島に原爆が投下されたという知らせを聞いた数日後に実家のある広島に向かいます。そこで焼け野原 となった町を目の当たりにします。そして遅れて広島入りした俊さんと共に救援活動をします。全身火傷を負って苦しみながら死んでいく人の姿を毎日目にしながらの活動です。壮絶な毎日だったと思います。

東京に戻った2人は1948年の夏に『原爆の図』の制作を決意します。最初は1作だけ、その後は3部作と考えていましたが最終的には15部となりました。最後の作品が描かれた1982年までの32年間、夫妻は描き続けたのです。美術館にはそれらの大半が展示されていました。最後の作品「ながさき」は長崎原爆資料館に収蔵されているとのことです。

作品を見ながら私はこれらの作品を生み出した夫妻の思いがどのようなものだったのか考えずにはいられませんでした。正直なところ私は『原爆の図』を無意識に避けていたような気がします。悲惨な光景をたとえ絵画であっても見たくないという気持ちがどこかにありました。惨状から目を背けようとしていました。原爆資料館を訪れたときも直視できない資料がたくさんありました。だから現場を目の当たりにしたご夫妻がわずか3年後にそれを描こうとしたことがよく理解できませんでした。私だったら思い出すのが辛くて到底できないと思うからです。絵を描きながら夫妻が何を思っていたのか知りたいと思いました。

夫妻を突き動かしたのはおそらく 原爆の記憶を後世の人々に伝えてい かなければならないという強い使命感ではないでしょうか。原爆投下がどれだけ悲惨な状況を生み出し、いかに愚かなことであるかを作品で伝えようとしたのだと思います。使命感がなければあれほど悲惨な場面を絵画として残そうとは思わなかったでしょう。私はその思いに打ちのめされそうになりました。


美術館ホームページ↓


『原爆の図』のほとんどが2階に展示されていました。どれもこれも生々しく、息を飲むほどの迫力です。それらは写真撮影が許可されており、SNSへの投稿も許されていましたので、実物ほどの迫力は感じられませんが何点か掲載します。。

それぞれに「作者のことば」が添えられており、そこからも夫妻の思いが伝わってきます。なお、全作品および「作者のことば」は下記の美術館ホームページですべて見ることができます。


さらに私が感銘を受けたのは、原爆で亡くなった日本人だけでなく、日本人と共に犠牲となった韓国・朝鮮の人たちやアメリカの水爆実験で犠牲となった漁師やその家族、さらに日本の捕虜となった敵国のアメリカ軍兵士にも夫妻が思いを馳せていることです。戦争の犠牲者には敵も味方もないという夫妻の思いが作品に添えられた以下の言葉からも伝わってきました。

あなたの落とした原爆で
わたしたち日本人は三十数万死にました。
けれどあなたの原爆で
あなたのお国の若者も二十三人死んだのです。


ひろしまに原爆が投下される前に日本爆撃にきたB29から
落下傘で降下した米兵を捕虜にしてあった。
女の捕虜もいたという。
米兵捕虜の最後の姿は、
どんな着物だったろう、どんな靴であったろう。


ひろしまを訪ねて驚きました。
爆心地近くの地下壕にいれられていた米兵捕虜たちは
やがて死ぬかもしれません。
いや、或いは生きたかもしれないのです。
けれどその前に
日本人が虐殺しているということを知りました。


わたしたちは震えながら
米兵捕虜の死を描きました。

作品に添えられたことばより


美術館は埼玉県東松山市の郊外、緑豊かな丘陵地帯にあります。誰でもいつでもここに来れば『原爆の図』を見ることができるようにという思いを込めて1967年に夫妻が建てたそうですが、建物は老朽化しており、虫食いや紫外線などによって作品に傷みが出ていると言います。このままでは永続的な展示が難しい状況から美術館では一般の寄付を募っています。

美術館の建物
入り口
館内の廊下


支援を呼びかけるリーフレット↓

入場時にもらったリーフレットより


丸木夫妻は絵画で平和を訴えました。では私には何ができるでしょう。「何もできない」と言うのではなく、何かをしなければいけないという気持ちが私の中にあります。何もしなければ何も起きませんが、何かすれば何かが変わるかもしれません。たとえ一人の力であっても。そこで、今の自分にできること、やらなければいけないことは何かと考えました。まず『原爆の図』を見て受けた衝撃を忘れないことです。次に戦争を他人事と考えず、事実をしっかり学び続けることです。その上で、どんな小さなことでもよいから自分にできることをやることです。教員だったとき、生徒といっしょに取り組んだ文化祭での小さな活動もそのひとつだと思っています。






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