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75 お互いに傷つけ合うのはむなしい

合唱大会直前の貴重な練習時間でした。生徒たちには最後の歌い込みをしてほしかったのですが、私はあえて練習を中止しました。そして彼らに問いかけました。「人を傷つけていないか」と。合唱の練習は大事です。でも生徒たちの中に見えたふるまいが目に余ったからです。お互いに傷つけ合って楽しんでいる様子を見逃すことはできませんでした。そのことを考えさせることの方が合唱の練習よりはるかに大事だと思ったのです。

入学以来、生徒たちの中にたびたび見え隠れしていた「いじめ」の兆候。からかいや悪ふざけの中にそれが感じられました。そのたびに注意し、学活や道徳でも話をしてきました。クラスメートを「汚ね~」「臭え~」「キモイ」などと言ってからかったり、「消えろ」とか「死ね」などという言葉を発することが日常化してきたのです。

残念ながら当時勤務していた学校にいじめはありました。ニュースで取り上げられるような大きないじめではありません。でも小さいからと言って見逃してよいわけではありません。いじめはいじめです。言葉によるものが中心でしたが、時に消しゴムをちぎって投げつけたり、黒板に嫌なことを書いたりすることもありました。カバンにチョークの粉がまかれていることもありました。「いじめはありません」などとはとても言えない状態でした。

私が担任をするクラスでもそれは見られました。クラス全員ではありません。一部の生徒です。本人が嫌がるような言葉をわざと投げかけたり、傷つくようなことを言ったりといういことが見られました。ターゲットになるのはおとなしくて抵抗しない生徒、周りとちょっと「ずれて」いるように見える生徒が多かったですが、不可解なのは「嫌がらせ」をしている生徒の中の一人がいつの間にか新たな標的となることです。それまで被害を受けていた生徒は新たな標的ができると今度は加害者の側に回り積極的に「嫌がらせ」をします。他の生徒が標的になれば自分が標的から逃れられるからでしょう。加害者と被害者が持ち回りになっているように見えます。そして常に標的にならない「リーダー」のような生徒もいます。

自分がやられて嫌なことを他の人には平気でする、嫌なことをされて傷ついた人が今度は他の人を同じように 傷つける。この不条理な連鎖を何とか断ち切らなければと思い私は指導しました。でも、注意すると彼らは決まって言います。「ふざけているだけ」「遊びだよ」「本気じゃない」と。でも、ふざけているのだから、本気でないからやってもいいということにはなりません。

互いに傷つけ合うことのむなしさについて私は繰り返し話をしました。クラス全体に対しても個人に対しても。話をしてわかってくれる生徒はいました。でも抑止力となる生徒はなかなか現れません。抑止力となるにはそれ相当の覚悟が必要です。次は自分がやられるかもしれないからです。傷つけることをいっしょになってしなくても、笑って見ているだけでもいけないと私は言いましたが行動する生徒はほとんどいませんでした。傷つけ合いがなくなることもありませんでした。「リーダー」がやめない限り行為はなくなりません。

私は生徒の心の内を知りたくてクラス全員に状況をどう思っているか書いてもらいました。特に自分のことばや行動が人を傷つけたことはないか自分の心に問いかけてほしいと言いました。多くの生徒が気持ちを正直に書いてくれました。状況を望ましくないと考える生徒が圧倒的に多かったですが、彼らの心の中には優しい気持ちと意地悪な気持ちが混在しているように感じました。「嫌なことを言われている人をかわいそうだと思いながら一緒になってからかってしまった」「人につられて友達を傷つけてしまったが、そんな自分がいやだった」「優しくしてあげたいと思うのだけど避けたり、逃げたりしてしまった」「あんなこと言われたらいやだろうなと思いながらどこかで面白がっている自分がいた」「いじめをしている人に対してはすごく腹が立つのに自分も人に意地悪をしている」等々。生徒たちは自身の行為をかなり具体的に書いてくれました。彼らの心の中にジレンマがあることも感じ取れました。

中にはそれほどひどいとは思われない行為を反省している生徒もいました。でも感じ方は人によって異なります。本人はそれを「人を傷つける行為」だと判断したのですし、それをされた人も実際に傷ついていたかもしれません。受け止め方にも個人差があるので私の判断が正しいとは限りません。同じことを言われて(されて)も傷つく人もいれば笑って済ませる人もいます。その場の状況でも、また互いの関係によっても受け止め方は異なります。私が生徒に投げかけたのは相手が実際に傷ついたかということよりも、自分の行為が人を傷つけるようなものだったと認識しているかどうかという疑問でした。自分で自分の行為を見つめてほしかったのです。

「あなたのやっていることは人を傷つけていますよ」と人に言われて「そうなんだね。いけないことだからやめよう」とすぐに改める人は少ないと思います。人に言われて改めるくらいなら最初からしないはずです。「傷つけてなんかいない」と反論する人がいますし、「そうかなあ」と疑問を持つ人もいます。「他人にとやかく言われたくない」と反発する人もいます。聞く耳さえ持たない人もいます。生徒たちも注意されると、「だって...」「私(ぼく)だけじゃない」と言います。「相手だって悪い」と言い訳もします。でも自分の心はごまかせません。自分には言い訳ができません。自分が悪いと判断したら改めるしかありません。だから私は極力生徒の心に訴えました。「自分の中の意地悪に負けないで」と。「みんなの心の中には意地悪な気持ちもあるけど、それ以上に優しい気持ちがあるはずだから、意地悪な気持ちが顔を出そうとしたら優しい気持ちでそれをやっつけてほしい。心の中で両者を戦わせて優しい気持ちを勝たせてほしい。そうしたら自分自身も周りの人も幸せな気持ちになれる」と。

同僚の中には「そんな生ぬるい指導では生徒は変らない」「もっと厳しくやらなきゃだめだ」と言う人がいました。でも私は力で押さえつけるタイプの人間ではありません。甘いと言われるかもしれませんが、わかってくれる生徒が一人でも二人でも増えれば状況は変わると信じて私なりの指導を続けました。大きな効果があったとは言えませんがその後小さな変化は感じました。

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