アラカンのわたしが博士の学位を取得することの意味
大学院の修士課程で研究を始めたときは博士課程への進学は考えていませんでし。でも結果的に進学し博士の学位を取得しました。50代後半でした。学位を取れたことは嬉しいですが、取ることが目的ではありませんでした。大学教員になりたかったわけでもありません。なれたらいいですが、そもそも私の年齢では職を得るのは難しいと思っていました。私はただ研究がしたかったのです。学位は研究に付随したものでしかありませんでした。
「末は博士か大臣か」と言われた時代があります。優秀な子どもがなりたい職業、あるいは親が子どもに就かせたい地位として挙げられていたものです。博士も大臣も希少価値があり周囲から尊敬を集めていた頃のことです。今はどちらもかつてのような権威が失われており、死語に近い言葉となっています。
現在の日本では博士号を取得しても職が見つからず生活もままならいという人がたくさんいます。学位の希少価値は減りました。それでも取得する人はいます。なぜでしょう。研究者として生きていくために学位はとりあえず必要だからでしょう。なくても研究できますが、あった方が研究者として認めてもらえます。私は学位はパスポートあるいは免許のようなものだと考えています。学位を持っていれば一応その分野のスぺシャリストとみなされます。
博士の学位は通常は博士課程に3年以上在籍し、博士論文の審査に合格した者に与えられます。課程博士と言われるものです。他に論文博士もありますがこれは課程博士より取得が難しくなります。
私は課程博士ですが学位の取得に6年近くかかりました。当初は3年で取れると安易に考えていましたが研究を進めるうちに無理だとわかってきました。若い頃に比べると頭脳も身体も衰えています。文献を読むだけでも多くの時間がかかりますし、読んでもなかなか頭に入りません。新たな知識を習得してもすぐに忘れます。忘れるという点においてはそれは「みごと」です。体力勝負のフィールド調査もすぐに疲れてしまいます。無理がききません。気力はあっても体力が続かないのです。ですから3年で学位を取ろうなどと考えず、じっくりと腰を据えて取り組むことにしました。博士課程には6年まで在籍できます。その間に論文を提出すれば課程博士の学位が取得できます。その間に取得できなければ満期退学となります。
博士課程に進学したら学位取得を目指すのは当たり前だと私は思っていましたが、そうではない人もいることがわかりました。学位を取らない(取れない)人がいるのです。研究が進まず取得を断念してしまったり、途中で職を得て博士論文の執筆を中断する人がいます。学位を持っていても正規の職に就くのが難しい時代ですから研究途上であってもよい仕事が見つかれば就職してよいと思います。職に就いてからでも学位は取得できます。でも、院生の中には最初から学位取得を考えず「学歴ロンダリング」を目的にする人がいます。博士課程に在籍したという事実だけを残し、最終学歴をよく見せようとする人です。在籍しさえすれば「博士課程単位取得満期退学」という肩書が得られます。
このような学位ですが、私にとってはどのような意味があるのか考えてみました。
先述のように研究者の「パスポート」になります。日本では博士の学位は昔ほど価値を持ちませんが、海外では「ドクター」の称号はとても重視されます。私のような者でも紹介されるときには「ドクター」を付けて紹介されますし、それなりの待遇を受けます。戸惑うことがありますが、研究者として学位は必須です。調査する際にも役立ちます。
次に、大学院で研究する際の目標になります。私は大学院に進学した以上は学位取得が義務だと思っていました。だから私にとって学位は「目的」ではありませんが「目標」にはなっていました。目標があればそれに向かって進めます。ですから学位が取得できるよう努力しました。
さらに自分を律する力になります。私は大学院を修了しても研究を続けようと思っていました。大学教員にならなくても在野で研究をすればよいと思っていました。収入は得られませんが組織に縛られず自由に研究ができます。その反面甘えが出ます。学位は博士の名に恥じない研究をしなければいけないと自分を律する道具のような機能を果たしていると思います。
博士の学位は周囲の人たちの価値基準や人間性を知るものさしにもなります。特にその人の自己肯定感や 他者へのまなざし、他者を評価する基準のようなものを知る手掛かりになります。たとえば、私のような「在野のおばさん研究者」が博士の学位を持つことが嬉しくない人、快く思わない人がいます。そうした人からは揶揄の対象にされたり、冷ややかな言葉を投げかけたりされることがあります。間違ったことを言ったりすると「博士なのに」と言われたり「博士でも知らないことがあるんだね」と言われたりします。本人は軽い気持ちで言うのかもしれませんし、私の受け止め方が歪んでいるのかもしれませんが気分が良いものではありません。
博士の権威が失われつつある一方で、博士に対して特別な思いを持つ人は依然としています。先述のように一介のおばさんが博士号を持つことに羨望ややっかみを抱く人は少なくありません。だから私は必要がない限り学位のことは周囲に伝えていませんし、日常生活でも話題にすることはありません。大学院で研究を始めたときに知人から「優雅にお勉強ができていいね」と冷ややかに言われたとき以来余計なことは言わない方が賢明だと思っています。取るに足らないことだとは思うのですが。
最後に、博士の学位を取得してよかったと思うのが母を喜ばせることができたことです。以前にも書きましたが、私は大学院で研究をしながら高齢の母の世話をしていました。母はヘルパーの助けを得ながら一人暮らしをしていましたが、日常の世話や病院の付き添いなどは私がやっていました。一人暮らしなので母のことは常に気がかりでした。
母はそんな私を常に気遣い、娘に迷惑をかけてはいけないという気持ちで頑張ってくれているのが私にはよくわかりました。そして私が学位を取得したときにいちばん喜んでくれたのが母です。私が小さい頃は「女の子なんだから学歴なんかなくたっていい」と言っていた母ですが、晩年は私の研究を心から応援してくれました。やがて母は一人暮らしが困難になり、私が学位を取得して数か月後に施設に入居しました。その時を待っていたかのようでした。それから数年後に母は他界しましたが、研究成果をまとめた私の著書を大事に手元に置いてくれていました。学位取得はそんな母への最期の贈り物になったと思っています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?