見出し画像

『ケンタ中学校を卒業する』    (学年だよりから)

卒業式シーズンです。全国の学校で卒業式が行われている様子がニュースでも伝えられています。みんなどんな思いで卒業を迎えているのでしょうか。地震で被災した能登の子どもたちも元気で巣立っていってくれることを願っています。

学年主任だったとき毎月「学年だより」を出していましたが、その中で学校の様子をフィクション風にして書いていました。登場する生徒や教師は仮名ですが実在の人たちをモデルにしていますので読む人が読めばだれのことか想像がつきます。生徒たちは「みんなばれちゃう!」と言いながら愛読してくれました。保護者にも好評でした。1990年代のことです。

以下は卒業前の最終回に載せたものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

明日はいよいよ卒業式だ。「卒業したくない」なんて言ってるヤツもいるけど、ぼくには卒業という実感があまりない。なんでかなあ? でも卒業式を前に中学校の3年間をちょっと振り返ってみようと思う。
 
3年前の入学式はとてもよい天気だった。校庭のサクラが満開なのが印象的だった。あのときは結構緊張していた。ぼくは静岡から引っ越してきたので周りは知らないヤツばかりだった。ほとんどが同じ小学校を卒業しているのでお互い顔見知りという中で、ぼくだけよそ者という感じがした。でも、体育館で「おまえ見慣れん顔だな」と言って声をかけてきた坊主頭がいた。オックンだ。すごく嬉しかったのを覚えている。

ぼくは1年A組。担任はキタヤマ先生だった。数学の担当でバレー部の顧問をしていた。教室に行って席に着くと前に座っていたヤツが「いっしょにバレー部に入らないか」と声をかけてきた。3年間同じクラスになるタケイくんだ。こうしてぼくの中学校生活がスタートした。

入学式の翌日は学年集会があった。学年の先生たちが一人ずつ自己紹介をした。 中学校の先生というのはこわいイメージがあったけど、キタヤマ先生が最初に自分のことを「エンジェルキタヤマです」と言うのを聞いてイメージが変わった。ワタミ先生やイダ先生も同じように「エンジェル○○です」と言うし、学年主任のノナカ先生が「本当のエンジェルは私よ」と言うのを聞いたときは「ここは天国か!」と思った。 さすがにタカベ先生だけは「エンジェルです」とは言わなかった。トドのような巨体のタカベ先生はエンジェルと言うには無理があるもんなあ。先生も自覚していたのだろう。

中学校は何もかもが新鮮だった。まず制服がある。詰め襟はちょっときつかったけど中学生になったんだという気持ちにさせられた。教科ごとに先生がかわるのも楽しかった。算数が数学になり、新しく英語を勉強するようになった。外国人講師のリー先生やジョン先生の授業も楽しかった。部活には熱が入った。ぼくは結局剣道部に入ったけど、野球部やバスケ部は人気があって部員も多かった。野球部顧問のイダ先生は部員から神様のように崇拝されていた。

行事も色々あって楽しかった。5月の遠足はレイクランドに行きバーベキューをした。6月の球技大会は市の総合体育館でバレーボールをやった。バレー部顧問のキタヤマ先生は僕らのクラスを優勝させようと気合を入れて練習させた。でも優勝できなかった。先生はすごく残念がっていた。2学期は文化祭や体育祭がある。 文化祭では文化部の人ががんばっていた。体育祭はすごく盛り上がってぼくたちのクラスが優勝した。すごく嬉しかった。合唱コンクールもあった。市民会館で歌うときは緊張した。12月のマラソン大会はつらかったけど、走ったあとのおしるこがおいしかった。3月には鎌倉で班別自主行動をした。 1年生のときはみんなまだ子どもだった。男子などはよく取っ組み合いのけんかをしていたっけ。どちらかと言うと女子の方がしっかりしていたと思う。 

授業は楽しいものもあったけど勉強はやはり大変だった。テスト前はお母さんに「勉強しろと」といつも言われた。「置き勉」が禁止だったので6時間の日はカバンがずっしりと重かった。 学生カバンを肩から提げ、部活の道具を手に持って通学するのはひと苦労だった。ちなみにぼくは最初「置き勉」という言葉がわからなかった。「買い弁」もそうだ。 最初に聞いたときは「快便」かと思った。

2年生になるとクラス替えがありぼくはB組になった。担任は新しく来た男の先生で社会科のヤギ先生だった。体育館では担任の発表がなかったので、教室にタカベ先生が来て「B組は俺が担任するぞ」と言ったときはぎょっとした。でもそのあとヤギ先生が入ってきて「担任はぼくですよ」と言ったのでほっとした。タカベ先生はわざわざぼくたちをからかいに来たのだ。暇だったのだろう。

ヤギ先生は落ち着いていて僧侶のような先生だ。第一声が「わたしはとても暗い人間です」だった。しゃべり方はちょっと暗い感じだけど性格は全然暗くない。優しくて話しに説得力がある。中古の軽自動車を大事に使っていた。ヤギ先生の授業でぼくは社会を見る目が養われたような気がする。

美術のマツモト先生も他校からの転任だった。 マツモト先生は友達のようなお姉さんのような先生だ。 授業ではぼくの絵をいつもほめてくれた。その割には美術の成績はよくなかった。 教頭先生も新い先生になった。前の教頭先生は理科の先生で動物博士と呼ばれていたけど、今度の教頭先生は技術科の先生で整備士と呼ばれた。つなぎを着てよく作業していたからだ。

2年生で一番思い出に残っているのは宿泊研修だ。ふれあいランドでのオリエンテーリングや野外炊事、キャンプファイヤーがすごく楽しかった。スタンツはクラスみんなでダンスをして盛り上がった。 夏休みには職場体験をした。いろいろな事業所に分かれて仕事をさせてもらったが、ぼくはパン屋に行った。パン作りを体験したが 腕がいいとほめられ本気でパン職人になろうかと考えた。 仕事の大変さも少しわかった気がする。体育祭や合唱コンクールは2年目なので1年の時よりずっと盛り上がった。体育祭の優勝はA組、合唱はぼくたちB組が金賞だった。10月にはベトナムの先生たちが視察に来られた。女子は浴衣を着てもてなしたけどみんなやけに色っぽく見えた。 3年生が引退したあとの2学期からは僕たちが部活の中心になった。

そして3年生になった。やはり新しいクラスが気になる。 始業式の日はどきどきしていた。ぼくはC組で担任は1年の時と同じキタヤマ先生だった。キタヤマ先生とぼくは名前がよく似ている。キタヤマケンタとキタガワケンタだ。「山」と「川」が違うだけだけど、人間的には全然違う。ぼくはバレーボールが苦手だし、先生のように几帳面でもない。 出身は同じ静岡県だけど、先生は「伊豆の不良」と呼ばれているがぼくは不良じゃない。 先生は自分の夢は「白馬に跨る王子様」なんて言っていたがぼくの夢は起業家だ。 でも先生にはすごく面倒を見てもらった。実の兄貴のような気がする。

3年ではやっぱり修学旅行が一番の思い出だ。2年生のときから準備を始め、テーマ別に分かれてコースづくりをしたりして大変だったけど当日は最高に楽しかった。京都奈良の旅はずっと記憶に残ると思う。球技大会では僕たちが優勝した。文化祭では「人間美術館」というのをやって体中に絵の具を塗りたくった。ぼくはミロのヴィーナスになった。楽しかったなあ。体育祭も3年生が中心になってがんばった。 看板づくりも遅くまでやったっけ。当日ははらはらするような展開だったが結果はB組が優勝、ぼくたちは準優勝だった。合唱コンクールはA組が金賞で、マラソン大会はD組が優勝した。この年は全クラスが優勝を経験し「平等な」一年になった。

最後に用務員のシゲさんには心からお礼を言いたい。1年生のときぼくが教室の窓ガラスを箒で割ってキタヤマ先生にこっぴどく怒られたことがあった。それをシゲさんは新しいガラスを入れながら横で一部始終を見ていたんだけど、そのあと落ち込んでいるぼくに「もう失敗するなよ」とやさしく声をかけてくれたのだ。それがきっかけでぼくはシゲさんと親しくなった。そしてやんちゃなボクはそれ以降も教室のものをよく壊しそのたびにシゲさんに修理してもらった。シゲさんは掃除の時間はいつも焼却炉にいて各教室から集まるゴミを燃していた。ぼくがゴミを持っていくと「おいケンタ。今日は何も壊してないか?」とよく声をかけてくれた。

こうして中学校の3年間を振り返るといろいろなことが思い出される。ぼくもずいぶん成長した気がする。なんと言っても人の気持ちを考えられるようになった。明日の卒業式は3年間いっしょに過ごした友だちや先生だちと有終の美を飾りたい。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?