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「 無人であること 」

 カフカの小説「変身」の主人公グレゴール=ザムザに既視感を覚える。あの小説の特筆すべきことは、常に「虫」になった主人公自身の目と感覚で語られていることである。

 グレゴールの場合、たまたま「虫」になった。なぜ自分が「虫」になったのか、その辺りの理由はいっさい語られず「虫」としてその後の余生を過ごしている。だが、中身は昔と変わらずグレゴールという人間のままなのだ。彼は「虫」に変身後、何か人と違う価値観を得たのだろうか。

 わたしも時折、自分という殻の中にいる感覚があり、もしこのわたしという殻の外に自分が出られたなら、どんな自分が待ち受けているのだろうと出来もしない妄想に駆られることがある。

 たまたま「人」だった。そしてこんなどうしようもない暗澹な自分というリアルがある。もし仮に、この手も足も、動かす器官その全てが違うものと置き換えられ、別次元の「何か」として生まれ変われたなら全く違う想像もしない新しい価値観が得られるのだろうか。

 まず現実この小説のような不条理に立たされることは起こり得ない。しかしVR世界の進化に伴い、そう遠くない未来、やろうと思えば生まれながらにVR装置を装着し、仮想世界を現実として生きればグレゴールのように「虫」に成り切ることができるかもしれない。否、自分から「虫」になりたい者はいないだろうので、もっと他の憧れの何か違う存在、例えば「女優」とか。

 そういえば昔「マルコヴィッチの穴」という映画があって、あれはマルコヴィッチという俳優の頭の中に入り込める奇想天外な話であった。あの感覚。もしあんな感じに変身できるのだとすれば人間は新しい知見を得られるだろう。

 興味を惹くのは、まったく人間と異なる怪物のような身体を手に入れたときだ。自分じゃない自分。過去人間であったことを忘れるくらい変身してしまったら、その中の「元人間」は何を思うのか。

わたしは宗教的なことを信じる方ではないので、あの世があるとはどうしても信じきれぬが、もし宗教家の言うようにあの世があって霊魂という存在でまだ生き永らえていられたとすれば、あのグレゴールのように「元人間」として何かを感じることができるだろう

わたしは何者か?
わたしを人間たらしめるものをすべて脱ぎ捨てたとき
わたしは何者でいられるのか?

何の疑いもなく自己同一性を完全成り立たせている人を見ると わたしは同じ人間として とても自分を遠くに感じる。

わたしは本当の人間(=真人間)なのだろうか と。

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