見出し画像

自信満々人間

私は自他共に認める自信がある人間である。近頃までは自分が特別自信がある人間であるとは思っていなかった。しかし、他者と話していく中で自分が他者と比べて自信がある方であると感じた。他者と比べたいということではなく、他者からの視点で自分を見ることができるのである。友達には「その根拠のない自信が欲しい」と言われたこともある。自分では自覚がなかった一面についてこのエッセイで考えてみることにする。

自信の源

私はよく「強い」と言われる。精神的に強いという意味である。日常的に悩み事が常になかったり相談事を あまりしなかったりするからである。実際に悩み事を 1 人で抱えていることや他人に自分のことに関して相談することは 今まで生きてきてほとんどない。しかしミクロな視点で見れば少しは気分が落ち込むことや不安になることはある。しかしそれも長くて 1 日もすれば解決する。なぜ悩んでいるのか、どの部分が嫌に感じたのかを自分が理解するまで考え、分析するのである。学生生活しか送ってきてない今だからそんな呑気なことを言えているのかもしれない。
学生時代に多い悩み事として「人間関係」や「進路のこと」が挙げられる。それら二つのことにおいても悩み事はそれほどなかった。これは周りの環境が大きく関係している。自分に自信があるのも、よく「強い」と言われるのも、周りにいる人たちの影響をすごく受けている。人間関係においては特に友達関係で悩み事が発生するかもしれない。私は友達と呼ばれる存在の人に対して大きな 価値を感じている。自分のことを理解して、話を聞いて解決してくれる。そういう大きな存在であるから「友達」という一律された呼び方に違和感をもつのかもしれない。ある不安や自分の弱点に自分自身が向かい合った時に解決策を見つけるためにまず友達に話をする。悩みになる前に自分が少しでも違和感を覚えたら話をするのである。そうするといつのまにか解決策の糸口が見つかっているのである。またその不安や弱点を自分の中で見つけた時に友達に話してみると「私らしい」 や「それはいつものこと」と言われて終わることもある。自分を一番理解するべきなのは自分であるにも関わらず、友達の方が私のことを見て理解しているのである。そのような人たちに私に縁があったからこそ悩み事がなかったり、相談しようとしていた内容がそもそも相談事ではなかったりするのである。次に「進路に関する悩み」である。私も高校、大学と学校を選択する場面があったが 2 回とも私の独断で決定した。その時にも悩むことはなかった。高校を決める時には「アルバイトをすることができる」という条件だけで学校を絞って 1 校目の文化祭を見てそこに決めた。学校での進路説明の時には「自分が将来どんな仕事をしたいか」 「どういう学部に入りたいか」ということを決めてそこから逆算して決めていくのが良いという紹介があった。しかし私はそのようなことをする前に決まっていた。「なんとなく」という理由で高校を選んだ。滑り止めの私立も同じように文化祭を見て決めた。しかし12 月の直前説明会で第一志望にしていた高校の先生の説明を聞いて「この高校に私は入るべきでない」と感じ、受験をやめたのを今でも覚えている。具体的にどのような説明を聞いてそう感じたのか覚えていないが、「ここには入学しない」と思ったのを覚えている。結局直感という曖昧なものではあるがそう判断し、私立の高校に行くことに決めた。直前で第一志望の高校を変えたが、結局それで私はよかったと思っている。その高校に入学したからこそ沢山の出会いと経験が得られたからである。大学も同じように自分がここがよいと感じたところに自分で決めて入学した。これまでの流れで「親への相談」がなかったことに気が付く。親の介入がなかったことが 私の直感で動く能力を高めた要因でもあると思う。親が自分に自分の選択を託してくれたことで悩むことなく選択ができたのかもしれない。私は「なんとなく」で決めてうまくいってしまうことが多い。運がいいのかもしれないが、今まで生きてきて、成功体験を積んでいるため直感で決めることが多いのである。いずれ直感で決めているがゆえに起こる大失敗があるかもしれない。だがそれまでは成功体験を積んでしまっている直感で決断をしてしまうのだろう。人間関係も進路も私自身は常に直感で動いている。直感の判断を下すための要素はさまざまであるが最終的には 自分がどうしたいかという基準で決めている。自分がどうしたいかが明確であるのに「他の人に変に思われた らどうしよう」「ほかの人にどう思われるかが気になる」と思うことはない。それは周りの人が受け止めてくれるという信頼があるからできることである。この信頼があるから私は自分の行動に対して自信を持って答えを出すことができる。自分が身を乗り出して新しい環境に飛び込んだり、新しいことをしても自分の今の周りの人は受け止めてくれると思っている自信は、自分の周りの人がそう思わせてくれる人だからである。このことにより「強い」と 言われることがあるのではないかと思う。自分がどうしたいかということを常に考えてそれを中心に行動をする。行動するための要素や必要な知識は行動を始めてから身に着ける。行動する第一歩は思い立ったら すぐに踏み出す方が、自分にとって最適な行動指針なのである。

自己肯定感

自分に自信があるかどうか、人生を幸せに過ごすにはという議題になった時に「自己肯定感」という言葉が出てくることがある。自己肯定感という言葉が世に出回るまでその言葉を知らなかった。自己肯定感とは 言葉の通り、自分を肯定的に感じることができるかということである。自分がその言葉に対してどう対応しているのかということを考える。自分の周りの人から「私らしい」といわれることや認識されることが多い。「私らしい」と言われて安心するわけではないが、そういわれることによって他者が私を見ているという感覚になる。 私は人と接するときに猫を被るということはしないため、私らしいといわれたその要素は作られた「らしさ」では なく本当の「私らしさ」であることが多い。第一印象でよく見られたいという欲望がないのである。初対面に 対して「きっと受け入れてもらえるだろう」「受け入れてもらわなければそれまで」「この一人が自分のことを拒んでも影響はない」と思っているからそこまで自分の見え方をよくしようとしないのかもしれない。愛想笑いが苦手なのも、「私らしい」と認識される。私はそれでいいと思わせてくれる。他人の評価に左右されていると思うかもしれないがもし私の周りの人が「私らしくない」と認識するような言動があったとしたら、私というものが壊れているときであると思う。自分がこのままでいいという感覚である。他者から「私らしい」といってもらえることが嬉しいことは自己肯定感と直接結びつかないのかもしれない。しかし、本当の私らしさを理解してくれたことに対して嬉しいのであれば「私らしさ」を自分で肯定していることになるのだと思う。そう考えると私は 自己肯定感が高いのかもしれない。なぜ私は自己肯定感が高いと言える要素を持つようになったのか考える。自己肯定感が高い人の特徴として、「ポジティブである」「自分がやりたいことを素直に伝えられる」などが挙げられる。私の性格として当てはまっているものが多い。これらの性格はおそらく幼少期での両親からの 影響が強いと思う。私の両親はポジティブであると思う。例えば、ファストフードに行って形が歪なチキンが一つ 入っていたとする。そういう時に「これが当たりだね」と発言するような人である。当時それを聞いて特に何も思わなかったが、今思えばポジティブに物事を捉えるということに関して影響を受けていたのである。体調が 悪くなって寝込んでも「今の時期でよかったね、もうちょっと後だったら大事なイベントに被るから」と発言する。このいい面を捉えようとする力が自己肯定感が高い人の特徴として挙げられる「ポジティブ」の部分を育ててくれたと考える。私の「自分のやりたいことを素直に伝えられる」というところは、自分のやりたいことを伝えることで実現できる可能性が高いということを体験から学んでいるからであると思う。一人っ子であったため、私が行きたいと言ったところには休日の時間のある時には連れて行ってくれることが多かった。習い事も自分がやってみたいと言えば体験会に連れて行ってくれた。素直にやりたいことを伝えることで得た成功体験が多いため自分はなんの障害もなくやりたいことを他者に伝えられるのではなかと考える。また、私は分かりやすく親に褒めてもらったことがない。こう聞くと冷たいように感じるが、このわかりやすく褒めてもらったことというのは条件付きで褒められたことがないと言い換えられる。つまり「テストでいい点数を取ったから偉い」 「習い事の練習をしているから偉い」などと何かをしたことにより褒められるということである。だから、「褒められるために勉強しよう」という考えにはならない。「褒められるため」に何をするかではなく「自分は何がしたいか」によって無意識のうちに行動を選択しているのである。条件付きで褒められることはなかったとしても、私自身や私のやりたいことに関して否定されることはなかった。やりたいことにお金や時間的な協力が必要な時は協力してくれた。私の「やりたい」に正面から向き合ってくれるのだ。 また、私が転びそうになるのを防ごうとするのではなく、転んだ後すぐ助けようとしてくれる環境にあった。

全てを正解にする

自分は目標や叶えたい夢がないため例え得た結果が元々の道と逸れていたとしてもそれを正解の道として進んでいく。これは悪くいえば逃げに入っているのかもしれない。自分の本当の道から逸れていてもその道に戻ろうと努力しない。そういう意見もあると思う。しかし、私は逸れた道を正解とすることは逃げではないと 思う。違う道に歩き続けているだけで逃げてはない。元々行きたかった道に縋り付かないのである。そこまでの熱量がなかったということもある。しかし、無理やり正解に戻るより折角逸れた道を歩き続ける方が楽し いと私は感じる。例え自分が目標としていたところにたどり着かなくても自分が選択した全てが正解。そう思うと目標が達成されないから自分がダメであるという悩みも無くなる。しかし目標を達成しなくて良いということではない。目標は何のためのものだったのかを考える。決まったところで本来の目標を達成させ、この学校が正解だったと思えるような行動をする。もちろん、ある一つの学校にこだわり努力をしている人は本当に尊敬する。私もその能力を育てたいと思うが、それよりもその決めた場所で進み続けるということが私 にとって楽しく生きるために必要なことなのである。常に進み続けたいのである。

人からのアドバイス

私は基本的には他人からのアドバイスに対しては素直に受け入れようとする姿勢を取る。誰に言われるかより何を言われるのかということを意識している。しかし、時々そのような考え方をしても素直にアドバイスを 受け取れないことがある。それは、相手の価値観の押し付けが含まれているアイデアである。私のことを見たうえでのアドバイスではなく、自分の価値観を相手に押し付けたいから言っているアドバイスなのである。実際に「悩み事があったら先生に相談するのがいいよ」というアドバイスを受けたことがある。これは私にとって絶対に従わないアドバイスである。先生が生徒の悩みを知っておくことで先生が動きやすくなる、先生という役割を発揮できている気がするなどの相手側のメリットばかりがあるからである。こちらのメリットとしては悩み事を話して解決できる可能性があるということだが、先生に悩み事を伝えたところで解決したという話をあまり聞かない。もちろん先生に相談ごとを言って解決する場合もあるかもしれないが、私はそのような体験をしなかった。私のことを理解している友達に話す方が何十倍も解決に向かうことができるのである。先生を100%信頼していたらこのような考え方 にはならなかったのかもしれない。なぜ先生が信頼できなくなったのかというと生徒をだまして生徒の人間関係を探ろうとした当時の担任の行動が原因であると考えられる。人のせいにしたいのではなく、当時の自分が素直にその先生の発言を100%は信用してはいけない、そう感じたのである。ここで先生の存在のことを悪く言うつもりはない。そこで、先生に対する100%の信用を無くした代わりに友達の価値が上がっていった。もちろん、先生というものが一番信頼できる大人であると考える人もいるかもしれない。そのような考え方を否定したいわけではない。ここで話しているのはあくまで私が体験して思ったことである。この考え方があるため先生に「気に入られる」ということをしたくなかったのかもしれない。私は苦手だと思う人に対して自分から積極的に関わろうとすることが苦手である。学生時代において、先生に「気に入られる」ということは内申、受験にかかわってくる部分であるため気に入られて損はない。しかしそのようなメリットがあることを含めても私は気に入られようとする行動はできなかった。代わりに、実力でねじ伏せる ということを覚えた。気に入られていなくても、毎回の提出物、テストで結果を出し成績を取っていくのであ る。そのために費やす時間は存在してしまうが、そのような実力をつけることによって私のことをよく思っていな かったとしてもいい成績をつけなくてはいけなくなる。 実力でねじ伏せるということは高校の制度でも実感した。私の高校はアルバイトが許可制なのである。アルバイトをすることはできるが、あまりにも元の成績が悪かったり、アルバイトを始めてわかりやすく成績が下がったりしたら許可が下りないのである。つまり、実力がそれなりにあればアルバイトをすることができるということである。人に よっては許可が下りない場合もあるらしいが、私は許可が下りて無事正式にアルバイトをすることができた。 実力でねじ伏せることができる実力が自分であると思えれば、その力を使うことができるということを学んだ。そうやって気に入られる必要がないと思っている時点でほかに自分が大切に思っている人には受け入れてもらえる自信があるのである。無理に誰からも気に入られたいという気持ちはなく、自分が大切にしている友達に受け入れてくれる自信があるだけで気持ちの持ち方はだいぶ違う。

やってみたいことのアプローチスピード

私はやってみたいことがあったら、その瞬間からそのための種まきを始めている。ここで表現した「種まき」とい うのは始めてみようとするための第一歩である。例えば新しいアルバイトをやってみたいとなったら「探して応募する」ということ、習い事でいえば「場所を探して体験レッスンに申し込む」ということがここでいう種まきで ある。やりたいと思った時期になんでもやらせてもらえる環境にあったからか、やってみたいことや新しいことを 始めるための抵抗は小さい頃から少ない。ここ数年でその反応のスピードが増加している。中学生のころは一回立ち止まって考えていた気がするし、そもそも自分自身でできる範囲も少ないためやってみたいと思ったことに踏み出すことがあまりなかった。高校生になってから本格的に新しいことに対してとりあえず種をまいてみるということが増えた。高校生になって始めたアルバイトは少し時間がかかってしまったが、それ以降は始めたいと思ったらすぐに体験に申し込んだり説明を受けに行ったりしていた。調べて条件があったところに 直接足を運ぶ。そして自分で考えて最終的な選択をする。何も考えずに行動しているわけではないが、 種をまいた後でしっかり考えることが多くなった。種をまいて考えている間に結果が出たら、その流れに従うよ うにしている。自分がするべきことは必要なことややりたいことに対して必要な種まきだけで行い、結果はそのことにかかわる人すべての人により左右する。自分ができる限りの努力をしてその出てきた結果を素直に受け入れ、自分の中で最終的な選択をする。

環境により生まれる自信

私の自信があるエピソードを思い出しながら書いていったが、結局は「環境」が自分の自信を作っていたことに気が付いた。自分がどう思われるかを気にしないのも受け入れてくれるという自信を持たせてくれる友人がいるから。新しい環境に飛び込んで何かあっても戻れる居場所があるから私は自信満々に新しいことに挑戦できるのかもしれない。

最後まで読んでくださった皆さんもこれを機に自分の自信や周りの環境について内省してみてはいかがでしょうか?

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?