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人と生きること

このエッセイは、私が今まで生きてきて考えてきた人と生きるために考えていることをまとめたものです。少し長いですが、トピックごとにまとまっているので、興味があるものから見ていただけると幸いです。読んでくださる皆さんと自分の価値観の違いを楽しんでいただけたらと思います。



人間関係について

信じることが人間関係において最も重要なことであると思う。「信じる」といってもただ相手の発言を信じていることだけではない。本音で話せることが相手を信じていることなのではないかと思う。けんかをするほど仲がいいというが、実際にそうであると思う。けんかになるくらいお互いがお互いに踏み込もうとしているからである。自分に関係のない他人に対してわざわざけんかになるくらい自分の意見を伝えようとすることは少ない。もし、自分が相手に対して話したいことがあったとしても、それについて話すことを避けているのであれば、それは相手に踏み込もうとしていない。相手が避けたがる話であっても、自分が相手と話しておくべきであると思ったら話すべきである。相手がその話を受け入れてくれるという「信頼」があるからこそ、踏み込めるのである。踏み込んだ話をするためにはそれを受け止めてくれる、その話をしっかりできるという信頼があるから一歩踏み込めるのである。

友達という存在

 私は友達というカテゴリに縛られる違和感がある。そもそも人間関係に名前を付けること自体に違和感がある。もちろん第三者に話すときには「友達」という共通の認識として存在している言葉を使う。しかし、本当にその相手との関係を「友達」という枠組みでくくるのに対して違和感がある。第三者に「仲がいいね」と言われたときにすごく違和感があった。第三者からみる仲がいいというのはどのような状態のことを指すのかと気になった。ただ、一緒に遊んでいれば仲がいいということになるのだろうか。初対面の人とグループワークなどで世間話をしていたら仲がいいということになるのだろうか。仲がいいという言葉にはいろいろな度合いが含まれているのである。もちろん会話の中では友達という名前を付けて話す方が相手に伝わりやすいため文字や言葉で使うことは多くある。しかし、お互いの認識として「友達」となっていたり、確認し合ったりすることはない。お互いが「友達のような存在」という認識もある。私の中で「友達」という言葉には重みを感じる。人によってはクラスが同じで少しでもしゃべったことのある人のことを「友達」と指す人もいる。私はそうではない。私の中での「友達」は私のことをよく理解していていいところも悪いところも知っているうえでかかわってくれる人のことを指す。そのような存在のことをほかの人がいう「友達」と同じ言葉で表されてしまうから違和感があるのかもしれない。友達というものに価値を感じるのは幼少期からである。幼稚園時代の写真を見ても友達に囲まれている写真も多く残っているし、時々会う友達もいる。私の指す「友達」が大切という考え方はおそらく両親の影響を受けていると思う。「友達を大切にしなさい」と言われてきたからである。その言葉は大きな意味を持っていないかもしれない。その言葉を聞いたことにより自分も意識して大切である価値観が芽生えたわけではない。しかし、その考え方を行動として見てきたから自分もそのような価値観になったのではないかと思う。自分の友達ともつながりを持って時間を大切にする、子供が友達と楽しそうに遊んでいたらその時間を優先するという行動を間近で体感していたからである。その考え方は今の自分の考え方に大きく影響を受けている。私は友達との時間を優先順位の上の方に位置付けている。旅行先に友達が住んでいれば積極的に会う時間を作る。なにか困ったことや不安、相談事があれば友達に話す。私にとって友達とはそのような価値のある存在なのである。

人を見る目

私は第一印象で相手がどのような人なのかということを見ている。自分がどう見られているのかということが気になるが、相手がどのような人なのかということも気になる。それによって自分がどう接していくのか変わっていくからである。自分にいい影響を与えてくれそうな人には積極的に声をかけていく。結局は直感に頼ることになるが、その直感を働かせるために言動からどのような人なのかを観察する。

大人全員が信用できるものではない

小学6年生までは、学校の先生などの自分たちの周りにいる大人は全員信用できるものだと思っていた。しかし、そうではないことを小学6年生のころに学んだ。担任の先生に嘘をつかれたことがきっかけである。自分たちを取り囲む大人たちの中で信用してはいけない人もいる。その判断も含めての学校であると感じた。自分は誰を信用して誰のいうことを聞くのか。それを判断する能力も必要であると感じた。大人全員が信用できないとわかったため、誰の言葉を信じて、従うかは自分が決めるということを学んだ。

自分がどう見られているのかを理解したい

前にも書いたように私は自分がどのような人間に見られているのかということに興味がある。私は人と関わるときに猫を被ることをしない。猫を被った姿で相手に好かれても結局好かれているものは猫を被っている私であるためいずれ自分の素を出そうとするときに出せなくなってしまうからである。猫を被ったことのないといっても誰に対しても同じ態度で接しているわけではない。場面に応じて自分がどのような接し方をすればいいのかを考えている。相手が自分のことをどのように見ているかということを理解して自分の態度が変わるわけではないが、自己理解を深めるために必要なことであると思う。自己理解をすることによって自分のする選択に迷いが少なくなる。例えば、自分に合う環境がどのようなものか、自己理解を通じて理解していれば働く場所や環境を選びやすくなる。自分の性格を理解していれば人と接するときに気を付けるところ、相手とうまくやっていくために必要なことが明確になる。自分の「らしさ」の部分と改善したい(またはするべきである)部分を分け、より自分というものを確立していく。自分がどう見られやすいかを理解していることで自分がどう動くべきかだんだんわかってくる。私は人間関係において自分の頭の中で考えているときは沢山ある。特に自分について知るために相手に聞くことはよくある。しかし、誰にでも話しかけるということがあまりできない。この部分は私がもっと改善するべきであると認識している。集団で話している中に割って入ることを好まない。興味があるないということに依存しているため、「興味がない」となってしまったときの行動力が0に近い。最初の段階で自分の興味の有無を認識してしまうため興味がないと判断した時でも行動できる力が必要である。「人見知り」というのは子どものころにしか通用しないものだと認識している。ここで指す人見知りというのは知らない人に自分から話しかけに行くことができない、または、話しかけられてもうまく返事ができないということである。人見知りといってコミュニティを広げようとしないと最終的に困るのは自分だからである。子供のころは人見知りという言葉で成長するための過程であったかもしれないが、大人になると人見知りというものは自分を困らせるものになってしまう。私の興味がないときの行動もその人見知りの行動に似ていると考える。自分から話しかけない。輪の中に入りにいかない。このままでは集団に入るときに波にのまれてしまうのではないかと思う。輪を作ることは得意でも輪の中に入ることができなければ活かせる強みの範囲を狭めてしまう。しかし、私は既存の集団に溶け込むことは得意である。新しいアルバイト先でも2回目の勤務あたりから環境や人間関係に対しても「あたかも今まで居た感」を出すことができる。話しかけられたらそれなりの返答はできる。ただ、集団で話し込んでいるところに割って入る能力が低いことによって人見知りのような状態になってしまうのである。さらに私は相手から来てもらう能力が低い。相手が話しかけやすいような雰囲気や行動でないことが原因であると考えられる。助けを求めることはできるが、相手から手を差し伸べてもらえるという人を引き付ける能力が弱い。

自分の見た目

私は他人からどう見られているのかということはあまり気にしていない。しかし私の周りにいる友達などからの髪型のアドバイスには素直に受け止める。自分のことを一番理解するべきなのは自分であるが、その自分があまりこだわりのない部分に関して、理解している友達の意見がとても大切なものになってしまう。友達の意見で一喜一憂するわけではない。自分が似合うか似合わないかの基準が友達の意見によって決まるのである。大体髪型を大きく変えたときには同じような反応が返ってくる。前より似合っているのか、どう変わったのかということを伝えてくれるのである。そこで得たフィードバックを得て自分の基準を作り出しているのである。自分がどのような髪型をしたいのかというよりもその意見によって作り出された基準によって髪型が決まる。この基準の決まり方はほかのものと真逆である。自分がやりたいからやるという基準ではないのである。自分の見た目による希望は「やりたい」よりも「似合いたい」のである。よって自分の見た目は自分のことをよく知っている人によって決まるのである。

人に頼ること

私は困った時、人に頼ってしまう。これはあまり人に頼らず自分でやろうとする人からしたら不快な行動かもしれない。しかし自分が成長するために私にとって頼ることは必要なことなのである。頼ると一言で言っても場合によってどう頼るかは変わってくる。不明点を聞くこともあるし、代わりにやってもらったりもする。頼ることによって自分の弱さを知り相手にその弱さを伝えることになるがそうでもしないと自分がもっと成長できないと思っているからである。私は、一人で戦う能力が低い。一人で黙々と何かをしたり成し遂げたりするには能力が欠けている。私はすべてのことにおいて平均的または平均より少し上のことしかできない。何かが特別得意で何かが特別不得意ということがない。よって一人で戦うとなった時に武器となるものがないのである。平凡な武器が複数あったとしてもそれは強い武器にならない。だからほかの人に頼る必要がある。もちろん平均的な武器が複数あるため、ほかの人と協力した時の助けは広い範囲で行うことができる。私は一人で戦う場所ではなく複数人で戦う場所で能力を発揮できる。人に頼ることができるのもその場所で活かすことができるのではないかと思う。

第一印象が与えるイメージ

しっかりしている人とはどのような人を指すのか?私はしっかりしているねと言われることがある。それはおそらく第一印象が与えるイメージからきているものではないかと思う。第一印象でその人がどのような人なのかということは理解できないが、少なくとも言動が第一印象に与える影響はあると思う。自分が持たれるイメージを理解しておくことで自分がどのように行動すればよいのかが見えてくる。私は第一印象でおとなしい人であるということを思われやすい。私をよく知っている人からしたらおとなしいという言葉はあまりしっくりこないかもしれないが、愛嬌を振りまくことが苦手という言い方をしたら納得をされる。全員に対してかわいげのあるにこやかな態度をとるということが苦手である。むやみに近づくことができないと思われがちなのである。無意識のうちに相手に対して壁を作っているのかもしれない。相手の懐に入ることをなかなかしないのである。もちろん2.3回会う機会があれば話しかけることはできるし、相手がどのような人であるかも合う程度はわかる。私は初めに持たれた印象と出会ってから時間が経ったころの印象とではかなり差があるということを自分で理解している。その私が持たれる第一印象の冷たさやおとなしさなどのとげの部分はいずれ丸みを帯びていきたいなと思っている。一方で、第一印象を作る必要があるかと考えるとそうではないと思う。私の友人から「第一印象で自分が作っていたら、本物の自分を誰も見てくれなくなる。だから初対面でも自分の素を出さないと自分が心地よい関係になることはできない」といわれたことが5年くらい経った今でも覚えている。実際に猫を被って相手に接するともし自分が相手に好かれてもその気に入られた人間は偽りの自分であるためあまりうれしいものでない。しかし、素で接することで相手が自分のことを気に入ってくれた時は自分も受け入れてくれえたように感じてうれしくなるものである。

刺激を与えてくれてくれる人

私は高校選びにおいて電車に乗って通学できることと、アルバイトができるということを譲れない条件としていた。しかし、高校に入学してすぐにはアルバイトに応募していなかった。6月に友達がアルバイトを始めているということを聞いて、自分がアルバイトをしたかったことを思い出した。4月は学校が始まって部活にも入ってアルバイトは始めていなかった。しかし、その友達の話を聞いて7月くらいからアルバイトを探し始めていた。今振り返ると動き始めるのがこのころは遅かったなと思う。今の自分であればその話を聞いてすぐにアルバイトを探し始めて応募している。そのころは今より行動し始めるのが遅かった。最初は、夏休みだけの短期のバイトに申し込んだ。しかし、その短期のバイトは週に5回で5時間以上という短期の間にたくさん働く必要があった。その条件の中で私は週に2回の勤務を希望したためもちろん不採用であった。そのアルバイトの面接があったのは7月上旬であり、その後7月中旬にほかのところに応募して採用してもらった。面接した当時に勤務希望時間や頻度を自分で当時書いた紙を、4年ぶりに見る機会があったが、そこには「週2回、各2時間」と自分で書いていた。アルバイトを始まる前はあまりアルバイトの頻度を高くするつもりは自分の中でなかったようだ。今では週5勤務している私からしたら考えられない話であるが、始める前の自分はあまり頻度を求めていなかったのだろう。それでも採用してくれた当時の採用担当者にはとても感謝している。そのアルバイトがあったからこそ、高校時代にたくさんの経験をすることができたからである。週2回2時間の希望が週5回に変わり、自分の性格や生活が変わった。そのことにより得られたものは今でも活きている。きっかけとなった友達がアルバイトをやっているということを知らなければ私はアルバイトをしていなかったかもしれないし、もう少し後になって始めていたのかもしれないし、違うところのアルバイトをやっていたら、今の自分は確実にいない。もちろん別のアルバイトをやっていたり始める時期が遅くなっていたらまた違う正解があったのかもしれないが、今の自分からしたら今まで歩いてきた道が正解であると思うためその道に進むきっかけをもらえてとても刺激になった。また、3年生の前半に受験に向けての動きが本格化した時にアルバイトを休職した。その際に起きた人間関係による環境の変化により高頻度で前と同じように働くということができなくなった。そこでWワークをしようと思うようになった。それまではほかのところでも働くということは選択肢にもなかったが、新しく始めるきっかけがあったため、今では数か所掛け持ちするということができている。たくさんのバイト先に挑戦することができているため、結果的にいい刺激を与えてくれた。自分の関わる人によって自分というものが形成されていくといわれているが、それはまさにそうである。自分の身の回りに刺激を与えてくれる人がいてくれたからこそ、向上心を持って常に成長し続けたいという考えになったのではないかと思う。安定した環境ですぐに行動しようと思わないが、少し身近な人がなにかに挑戦している姿を見ると自分もすぐに行動しないと相手に飲み込まれてしまう気がしてしまう。焦っているわけではないが、相手を見習ってなにか新しいことに挑戦する気持ちが芽生えるのであると思う。私の周りにはいい刺激を与えてくれる人がいる。ずっと周りにいる人たちだけが刺激を与えてくれる人というわけではない。頻繁に会わなくなった子でも私には刺激を与えてくれる。すごく仲の良かった子であれば、時間が経てばやがて会ってしゃべるようになる。それまでの期間で自分がどれだけ多くのことをできるのかという刺激を与えてくれている。

自分が与えられるもの

私は自分の味方になってくれる人を友達と呼べる存在だと思い、そういう人が周りにいる環境にある。逆に私は相手になにを与えることができるのかを考えると「安心感」であると思う。私は他人が私の周りに居たらどうにかなるということを思っている。なにか困ったことがあった時や誰かに何かを言われたときでも、私がなんとかできるという自信がある。これは学校生活において主に思ったことである。例えばなにかに対して友達が注意されてしまったときに全力で私が守りに入る。守るといっても物理的に何かできない時には味方になるだけであるが、その場をどうにかするという気持ちは常に持っているのである。これはピンチでない時でも同じことがいえる。なにかを実行しようとしたとき私の周りにいる人は楽しい体験をすることができるという自信がある。

人を誘うこと

私はよくご飯や遊びに誘う。誘われるより誘う方がはるかに多い。自分から誘うことに抵抗がないのである。誘って断られたらどうしようという心配はしたことがない。断られる=自分事否定されるという考えではないからである。自分が誘いたいと思った人でも相手が乗り気でない場合は無理に来てほしくない。自分も相手も乗り気である関係や頻度で会うことが最適であると思う。私がなにかに誘う時には人を選んでいる。誰でもいいわけではないのである。自分が誘いたいと思う人を誘っているのである。自分はあまり乗り気ではない人に対してそもそも誘うことはない。自分のことをよく思ってくれていると思える人を誘うのである。自分がどう思われるかは相手によるため変えることができない。しかし、自分への態度にを受けて相手とどう接するかは自分で決めることができる。自分のことをよく思っていない人にはあまり関わらないのである。だが、仕事やバイトにおいてそれは通用しなくなってくると思う。自分と合わないと思う人でもかかわっていかなくてはいけない。そうなった時に私は関わらないようにするのではなくどう関わっていくかを考えて行動する。そうはいっても自分のことをよく思っていなかったり、合わないと感じたりした人とはその仕事やバイトだけでしか関わらない人となる。プライベートでご飯に行ったり話を聞いてもらったりすることは絶対にない。自分が積極的にかかわりたいと思える人と自分は関わるようにする。自分が相手にかかわりたいかどうかを考えているが、相手も同じように考えていて当然である。自分が相手と関わりたいと思っているのと同じように相手にも自分とかかわりたいと思ってもらえるかが重要になってくる。自分によくしてくれる人しか私生活で周りにいない状態を作る。だから自分に自信が持てる。自分の存在を否定してくるような人は周りに一切いないから自分が受けとめてもらえるという自信につながる。

連絡スピード

私は人と比べて連絡を返す頻度が多い。これにはメリットもデメリットもある。メリットとしては、早く話が進むということである。私が早く返事をすることによって相手が待つことがないため相手次第でスムーズに事が進む。デメリットとしては自分の待ち時間が長いということである。通知を確認する頻度が高いため、次に通知を確認する間に新しい連絡が来ているということがあまりない。よって自分が連絡を待つという状態が多くなる。さらに、返事が早いことにより話が遠回りする可能性もある。それでも私は通知のマークが1つでもたまっているのが気持ち悪いと感じる。よって結局通知をなくするために返事をすぐにしてしまうのである。通知がたまっている状態が嫌であることでメリットもある。余計なメルマガを登録しなくなるのである。あまり使っていないお店のお知らせを確認することがストレスになるからである。逆に返信することがストレスになっている人もいることを知った。私は返事することに対してストレスを感じていないのである。返信するために文章を考えることがストレスになっている人は、相手の気持ちをすごく考えて送っているから負担になっているのではなかと他者の話を聞いて思った。それはそれですごくいいことであると思うし、その思いやりを気づけるようになりたいと思う。返事のスピードがゆっくりであるかと言って、不思議に思うのではなく自分の返事がとても早い方であるということを理解できたため、自分と相手のスピードのギャップに対して疑問を持たなくなった。自分の返事の頻度が高いことによって相手にプレッシャーを与えているということも分かった。相手が次に携帯を開いたときには私からの返事がきているためスマホを開くたびにタスクが増えている感覚になるのである。これを知って私はそのような感覚の人もいることを認識して、返信に対する負荷のかかり度合いに個人差がかなりあり、自分はその負担が限りなく0に近い性格であるということを理解するきっかけになった。

あえて空気を読まない

全員に好かれる必要はない。だから常に空気を読む必要は無いと思う。相手が不機嫌になるとわかっている話題であったとしても向き合う必要のある話題であれば積極的に空気を読まずに話を出すべきであると思う。そうしないと、永遠に相手の顔色を伺わなくてはいけなくなる。それでは問題が解決に向かうことはできない。問題が発生した時に空気を読んで誰も話題に触れなければ、問題はずっと問題になったままである。なにか大きな変化を起こしたければ空気を読んで流れに任せていてはいけない。自分が変えていきたいとき空気を読むことが障害となってくるのである。なにか質問されたときにも相手の空気を読むことができる場面がある。そんな時でも私は空気を積極的に読むことはしない。面接などでの解答からなにかを分析するために使われるときには相手の意図通りの回答をするが、基本は相手の意図に見えていないふりをすることが多い。

類は友を呼ぶ

自分がどういう人間であるかどうかはその人の周りの人を見ればわかるということが言われているが、実際にそうであると私は思う。自分が多くの時間を一緒に過ごした相手に無意識のうちに似てくるのである。仕草や言葉遣いが最初に影響される部分であり、その後、考え方も周りの人に影響されるのである。これが無意識のうちに起こることであるから類は友を呼ぶと言われているのではないかと考える。学生時代は活動している時間の大半を一緒に過ごす同級生も存在する。そうなると自然と考え方や言動も似てくる可能性は多い。しかし、大人になって自分の意志で入ったコミュニティは自分の趣味嗜好や考え方が似ている人のもとにたどり着きやすいと思う。その中で、自分のなりたい人と一緒にいる時間を増やすことができたらその人からいい影響を受けることができるのではないかと考える。働く場所も同じように、自分の理想の生き方や進み方をするような人がいるところで働くことができれば、自分の成長の方向がはっきりするのではないかと思った。常に自分の進みたい方向の先導者がいるということはすごく心強いことであると思う。逆に自分がこのままこの会社に居て、この役職についたらこのような人になるのだなと見て、自分の目標とのずれを感じる場合は、その環境に居続けることはもったいないことであると思う。自分の目指すべき場所となる人がいるからこそ、その職場に価値があるのだと思う。そのような目指すべき人と一緒に時間を過ごすことによって自分もその影響を受けて自分の目標とする自分にたどり着くことができるのではないかと思う。

最後に

長いのにも関わらず、最後まで読んでいただきありがとうございました。皆さんの自己理解の手助けになれていたらうれしいです。

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