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記憶の残滓

 これは、私こと狐が体験したお話です。

その日は少し肌寒く、私は何か温かいものでもと思い自動販売機の前にいた。
そこは駅からも近いコインロッカーの側、人通りも多く、帰宅ラッシュもあって人でごった返していた。

ココアを買ってそれを一口、ホッと息をつくと、白い吐息がふわりと宙を舞った。

その時だった。

──ん?

急に何かに服の袖を引っ張られる感触。
ふと視線を向けても、そこには何も無かった。

──気のせいかな?

そう思う事にしその場を立ち去ろうとする、だが。

──あれ?

またもやグイッと引っ張られる感じがしたため、何か引っ掛かっているのかもと思い直ぐ様辺りを見回した。

何も引っ掛かってはいない。
荷物も手下げのバッグだけ、特に異常はなかった。

──おかしい……。

少し考えたがやはり何も思い浮かばずその場を後にしようと足を動かした瞬間。

まただ。
やはり何かに掴まれている。
しかも今度は袖を掴まれたまま。

露骨に顔を引き攣らせていると、周囲の人々が訝しげな目をこちらに向けてきた。
途端に恥ずかしくなりその場で俯く。
誤魔化そうとその場にしゃがみ混み、持っていたココアを口につけた。

袖を掴まれた感触はそのまま。
まるで見えない何かがそこに居て私の服を掴んでいるような……。

そう考えると少し肌寒さが増してくる。
嫌な汗を感じ、思い切って掴まれた部分を引っ張って見た。

「うわっ」

抵抗するかのように更に引っ張り返され、思わず体勢を崩してしまう。
スカートがめくれそうになり慌てて両手でそれを隠す。
上目遣いで見上げると、通行人が口元を押さえクスリとしながら通り過ぎて行った。

──どうしよう……何これどうしたらいいの……。

そこでようやく、私は得体のしれない何かに巻き込まれたのだと悟った。
昔からよく体験する事だ。
ある程度耐性はついてきたものの、こういう不思議な経験が平気という訳では無い。
怖いものは怖いし、普段人に話せない分対抗策も分からない。
どうしたらいいのか戸惑っていると、不意に私の体にそっと寄り掛かるような感触があった。
例えるなら何か犬猫が擦り寄ってきた様な感じに近い。

怖いものではない……なぜだかは分からないがそう感じた。
温度は感じなかったが、それが害のある物には思えなかったからだ。

言い知れぬ緊張はあったが何だか無下にもできず、私はそこに暫く留まる事にした。
人通りが多いのもあったかもしれない。
ここが人気もない暗がりで一人ぼっちなら真っ先に逃げ出していただろう。
日は沈みかけていたが、周囲から聞こえてくる雑踏が私を安心させてくれていたのは確かだ。

やがて持っていたココアも底を着いてしまったが、それでももたれかかるその見えない何かを邪険にせず、私はじっとその場に蹲っていた。

ふと時計に目をやった。
時刻は午後七時。
流石に足も疲れ始めどうしたらいいのかと考えていた時だった。

──Y先生……。

頭の中にふっとその名が浮かんだ。
Y先生は私の恩師とも言える人だ。
今まで誰にも話せなかった事、これまでにしてきた不思議な体験話を、疑いもせず受け入れてくれた人。

彼女なら或いは……。
私はバッグからスマホを取り出し急いで通話を掛け、Yさんに事情を説明した。

『あら、丁度良かった、今お店閉めたとこなの、直ぐに行けると思うからちょっと待ってて』

「ほ、本当ですか?すみませんこんな事お願いして……ありがとうございます」

私はそう言ってスマホをバッグに閉まった。

「ふう」

思わず安堵のため息が漏れた。
普段こんな事に関して話せる相手もいないため、Yさんの存在は私にとって非常に有難い存在だ。

彼女は近くで占いの店を営んでおり、実はその昔、祈祷師、お祓い等の仕事もやっていた経験があるとの事。
過去、私はそのYさんの力を借りて何度も助けられた事があった。

──もう少しだけだからね……?

私は視線を横に向け、見えない何かに語り掛けるように小さく笑って見せた。

暫くして。

「お待たせ狐ちゃん」

「あっ……」

声がする方を見上げると、薄手のコートを羽織ったYさんが、私を見下ろし立っていた。
相変わらず綺麗な人だなと思いつつ頭を下げる。

「すみません急に呼び出したり何かしちゃって、実は、うわっ」

立ち上がろうとし掴まれていた事をすっかり忘れていた私は、思わずバランスを崩してしまった。

「だ、大丈夫?」

Yさんが私の手を掴み立たせてくれた。
もちろん服の袖はまだ掴まれたままだ。

「あ、足が……」

「ふふ、狐ちゃん産まれたての小鹿みたい」

「笑い事じゃないですよお」

「ごめんなさい……でもまあ、大体事情は分かったわ……」

「えっ……?も、もうですか?」

「全部って訳じゃないけど、その子から事情が聞ければね」

そう言ってYさんは私の隣を目を細めて見つめた。

──その子?

「こ、子供なんですか……?」

「ええ……小さい女の子、よく頑張ったわね、怖がらずにずっと一緒に居てあげたの?」

「最初はその、怖かったですけど……何か途中からほっとけなくてつい……」

「そう……貴女は拾いやすい子だと思ってたけど、やっぱりそれだけじゃないみたいね、ふふ」

「どう言う事ですか?」

「ふふ、いいのよ、狐ちゃんは優しい子だねって事、さてと、話を聞いてみようかしらね」

「は、はあ……」

釈然としないものの、私はYさんに頷いてみせた。

Yさんは以前、私にこんな事を話して聞かせてくれた事がある。
形無き者との会話。
それはまず自分を知ってもらう事だと。
自分には敵意がない事を知ってもらい、己が何者なのかを相手に知らしめる。
それが伝われば、相手は自ずと語りかけてくるのだと。

Yさんは目を瞑りじっと立ったまま。
時折微笑んだかと思うと、少し表情を曇らせる。
やがてYさんが閉じた瞼をゆっくりと開いた。

「そう……待ってたのね……ずっと、このお姉ちゃんが側に居てくれて良かったね……」

Yさんが独り言のように呟く。

「あの……何か分かりましたか?」

「ええ……ちょっと騒ぎになるかもしれないけど、狐ちゃんもちょっとだけ話合わせてね」

「話を合わせる……?」

こくりと頷き、Yさんは自動販売機の横にあったコインロッカーを見回し始めた。
すると、何かを発見したのか顔を近付け、ポケットからスマホを取り出し何処かへ通話をし始めた。

「あっ、すみませんちょっとご相談したい事がありまして……はい、実はお借りしようと思ったコインロッカーから異臭がして……はい、はいそうです、分かりましたありがとうございます、ではお待ちしております、はい失礼します」

「これでいいわ、さてと少し待ちましょうか」

そう言ってYさんは見えない小さい女の子を挟むようにして隣にしゃがみ込んだ。

待ってる間、Yさんは私の事についてこんな事を聞かせてくれた。
私には守護霊が見えないとの事。
居ないと言うよりは、何かに隠されているようにも見えると言っていた。
そして代わりに、何か嫌なものが見え隠れしていると。
それが何なのかは今は分からないが、なるべく危ない橋は渡らないようにと釘を刺された。

「あ、来たみたいよ……」

言いながらYさんは立ち上がった。
顔を上げ見ると、作業着を着た二人組の男性がコインロッカーに近付いてきた。

「あの、お電話を下さった方は……?」

男性の声にYさんが静かに頷き、コインロッカーの一角を指さした。

「異臭騒ぎと聞きましたが……臭いますかね?」

男性が首を捻ると、Yさんが黙ってこちらに目配せしてきた。

「あ、あの……わ、私も臭いました、そのコインロッカーから……」

すると、男達は顔を見合わせ、鍵束を取り出しコインロッカーを開け始めた。

ガチャりと音がしコインロッカーの扉が開く。
微かに漂うかびたような臭い。
男が中なからボストンバッグを取り出し中を確認する。

「うわっ!」

突然男が小さく叫び持っていたバッグを地面に落とした。

視線を開いたバッグの中に向けると、そこには……。

──包丁!?

バッグの中に見えたのは、血だらけの一振の包丁だった。

「あ、あのちょっと失礼します!」

男達が慌ててバッグを拾い上げその場を後にする。
それを見ていたYさんが、物悲しそうな目で見送っていた。

「あ、あのさっきのは……?」

躊躇うようにしてYさんに尋ねた。

「その女の子が見た……お母さんとの最後の思い出よ……」

「最後の……」

「ええ……記憶の残滓……彼女が見た最後の記憶ね。肉体を失い、消え掛けていたその子の記憶を、かろうじて繋ぎ止めていたものよ」

「そ、それじゃ、その子は……」

「私達にできることはもうないわ……後は……」

Yさんが言いかける中、私は何もない隣を抱きしめた。
いや、抱き締められるものなんてない。
そこには何も無い。
それは分かっている。
私には触れられない事も……。
でも、そうしないと、私の胸は張り裂けそうだった。

「寂しかったね……辛かったよね……」

我慢しようとしても、次から次へと涙が溢れてくる。

「大丈夫よ狐ちゃん……その子は殆ど覚えてないわ……ただあの包丁だけが、その子の記憶全てだったの……でも……」

「でも……?」

泣きじゃくる私はYさんに聞き返す。

「お姉ちゃんが一緒に居てくれて寂しくなかったって……良かったわね……」

そう言ってYさんは優しく微笑んだ。

ふと、さっきまで掴まれていた袖に、何も違和感がない事に気が付いた。

「もう……居ないんですね……」

「そうね……ねえ?」

「はい……?」

「何か甘い物でも食べに行かない?こういう時は甘い物沢山食べて忘れるの!どう?名案でしょ?」

Yさんが言いながらウインクして見せた。

「名案……だと思います」

釣られて微笑むと、Yさんは私の腕を取り、商店街の中へと歩き出した。

その瞬間。

クイッと、僅かに服の袖を引っ張られた気がした。

突然の事にビクリとはしたが怖くはなかった。

ただ、少しびっくりしただけ。
多分気の所為だろう。

でも、今はその気の所為が、少しだけ嬉しかった。



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