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時に言葉の価値は信用に「反比例」する

私は励ましの言葉を信用できない。褒め言葉も鵜呑みにできない。
なぜならその言葉を発している人間の人柄を「信用」しているから。

普通に考えれば信用している人間の言葉ほど言葉の価値は上がる。つまり信用に値するようになる。

一方で信用していない人間や交流の少ない人間の言葉の価値は相対的に下がることになる。

ではなぜこんな歪んだ思想を持つようになったのか。まずは私自身の過去を振り返り、その後考察を加えていきたい。

褒め言葉に対する信頼性がなくなるまで

私は小学生の頃しばしばテストで100点を取っていた。特に国語の成績が良かった(気がする)。算数もそろばんをやっていたので強かった。

私の家では100点を取ると100円がお小遣いとして貰えた。
私の母親はよく私に褒め言葉をかけていた(気がする)。
99点以下は金にならなかった。


私の親はよく夫婦喧嘩をしていた。内容は覚えていない。きっとちょっとしたことがきっかけだったこともあれば、私のことや金銭のことが理由だったときもあるだろう。

私の父親は昭和気質がまだ残っていた。平成になって20年ほど経っていたが私が父親の意向に沿わなかったり、何かしでかすと頭を叩かれた。私のやっていないことでも私のせいにしたりもした。それでも子どものころは妙に父親に懐いていた。父親は夜遅くに帰ってきていたので会う機会が少なかったのでその希少性故会いたいと思っていたのだろう。

私の母親は私に暴力は振るわなかった。むしろ父親が振るうと守ってくれていた。だから暴力を振るわれたときは母親が唯一の砦だった。

ただ父親と口喧嘩した後の母親は頗る不機嫌だった。私が何か不注意でしでかしたときも怒りを示していた。母親は暴力は振るわなかったが精神的に「くる」発言や振る舞いをする人だった。私は母親が怖かった。


小学6年生の頃には父親から暴力を振るわれることはなくなっていたと思う。私は昔から叩くのはやめて欲しいといっていたが父はやめなかった。それが気づいたらなくなっていた。

それに気がついてから父が暴力を振るわなくなったのは成長した私に暴力で抵抗されることを恐れたのではないかと考えるようになった。

そう考えるようになってからこの男はなんと卑怯な人間なんだと憎くなった。いつからかはもう覚えていない。でもこの男に対して私は暴力を振るうことはなかった。


「やっぱりね」

これは私が高校受験の合格発表の時に母と掲示板を見に行ったときに母が呟いた一言だ。本当にこの女のこういうところが嫌いだと心底思った。

私は高校受験にも落ち、近場の私立高校に入学することになった。名ばかりの選抜(笑)クラスに入りはしたが所詮は偏差値50程度。すぐに馬鹿になっていった。まあ元々馬鹿だが。


中学生の頃から会話の頻度は減っていたが、高校に入ってもそのまま、むしろより会話をしなくなった。

私は親と会話をすると苛つく体質になっていた。自分が不快だと思うことをされ、会話をしようとすれば喧嘩になり、どうせ言うだけ無駄だからだ。

親の前で声が出せなくなっていった。声を出そうとすると喉がそれを拒んだ。はじめは「ああ」など声に出して返事していたがそのうち相づちしか使わなくなっていった。


どんな文脈か、なんなら時期も忘れた。また家にいる女が私を褒めることがあった。そのとき思った。

「この女は私に媚びを売っているのではないか。」

そう思うようになった。当時の私は所謂反抗期と幼少期から積み重なってきたストレスの表出が入り交じっていたように思う。

男の方もそうだ。私から暴力で報復されないようにするためにゴチャゴチャほざくのもやめたのだろう。この男から褒められても何も嬉しくなかった。

私にとって褒め言葉は私の機嫌を取り繕うためのものにしか感じられなくなってしまった。

そのためこの頃には少なくとも2人の私に対する褒め言葉の信用は地に落ちていた。

不信感の拡大

私は友達だと思っていた人間に裏切られたことがある。

とは言っても大したことではないが。

本題にあまり関係ないので簡潔に言うと、夏の祭りの最中に私に唐突に暴力を振るって来た芥虫(知り合い)の側にその人間は付いたのだ。

その後(なぜかよく覚えていないが)私がその人間に対して何事も無かったように接したことをきっかけに関係は修復した。

そしてこの出来事を契機に友達は裏切ることのある存在だと悟った。


「女の子が可愛いと言うのは自分も褒めてほしいから」

こんな考えを中学生の頃テレビか本で収集した。

それ以来私は女子の褒め言葉には裏があると思うようになった。相手が人を褒めるのは自分のことも褒めて欲しいということの表れだと考えるようになったのだ。

これが親の褒め言葉に対する不信感と結びつき、私は友達の褒め言葉に対しても裏があるように思えてならなくなった。

とはいえ常にこの疑念を持っていたわけではなく、特定の話題で褒められたときにこの疑いを持つことが多かった。


私が歪んだ考えを持つようになった経緯は大体こんな感じである。

まだ付け加えられる出来事はあるが書くのが面倒くさいので端折る。

とりあえず私はあまり友達を信頼できない質の人間であることが分かった。しかし、別に私は友達と普通に遊ぶし仲もいい。

なぜなら遊んだり話すときにいちいち疑っていたら疲れるし、何よりも普段人と接する時「信頼しているか否か」など気にしてはいない。ただ話したいことがあるから話し、話されているから聞いている。これは私に限らず多くがそうだろう。

友達と接する際は信用はあまり関係しない。「友達である」というだけで理由は十分だからだ。

それではどうして友達の言葉は信用に反比例するのだろうか。

それは言葉、厳密に言えば発言内容が「文脈ではなく場面に依存している」ように感じてしまうからである。

その言葉はあなたの意思に拠るものか

今から記す場面を想像してみて欲しい。

あなたの隣に知り合いがいる。その人と談笑しながら街中を歩いていた。そんな中その知り合いは道の凹みに足を躓かせてしまう。

その場面を目にしたあなたは何と声を掛ける?

2つ目の場面だ。

その知り合いとは意気投合をし、後日また会うことになった。当日、その人と飲みに行き、その場のノリで宅飲みをすることになった。

そこでその人はこう言葉を漏らした。

「生きていて辛い...もう死のうかな...」

あなたはこの言葉に対して何と声を掛ける?

考えてから下に進んで欲しい。



あなたが何と声を掛けたか私が予想をしよう。

1つ目の質問の答えは「大丈夫ですか?」だろう。これに関してはこれくらいしか言うことがないだろう。

2つ目の想定される質問の答えは複数ある。
「何か(辛い事)あったの?」
「そんな事言うなよ。世の中お前より苦しんでいる人も懸命に生きているんだぞ」
「そうか...(などの呟き)」
「死んだら悲しむ人もいると思うよ」
「君が死んだら寂しいよ」

こんな感じであろうか。2個目と4個目は私の性に合わない解答ではあるが、こういう何の価値もない発言をする人間も一定数いることだろう。5個目が閃いた人は多分良い人間だ。

私の予想と同じようなことを考えていた人は残念ながら少なくとも相手の心を動かすことはできない。

一方で私の予想と異なっていた人は励ましの素質がある可能性がある。私の予想を超え、且つ常識の範囲内で相手を励ましていたならセンスがある。

この質問には何の意味があったのか。
それは発言は場面に依存する、の意味を理解してもらう意図があった。

つまり、上に挙げたような場面の際にどのような発言がなされるかがある程度共通して予想される場合、その発言は当人の意思によってなされた発言であるというよりは、そのような場面だったからその発言をした(選んだ)と考えられるということである。

確かに、言葉を選んだのはあなた自身だ。そう言う意味ではその言葉にはあなたの意思が関わっているかもしれない。しかし、その選ばれた発言はあなたの意思が生み出した表現なのだろうか。

1つ目の質問を思い出して欲しい。相手が目の前で躓いたら咄嗟に心配をしなかっただろうか。

もし相手が足を捻ったり捻挫していたりしたらどうか。きっとより深刻に気遣っていたことだろう。

要するに怪我に繋がるような出来事(場面)と相手を思いやる言葉は結びついている可能性が高い。これは発言した当人の意思に関わらず、この類の言葉が「出てしまう」と言ったところである。

それでは褒め言葉はどうであろうか。私はこれも場面に依存すると思っている。子どもに

「みて!90点!」

と言われたら「毒親でない限り」は「凄いじゃん!」と褒め言葉を掛けるだろう。毒親だったら「なんで100点じゃないの?」「だから?」と子どもの心を壊しにかかるような発言を平然と行うだろう。

でも褒め言葉であろうと壊しにかかる言葉であろうとそれはあなたの意思によって直接的に生み出された言葉ではない。

「みて!90点!」と見せてきたから褒めたのだ。明らかに褒めて欲しそうだったから、その期待に応えるために褒め(の言葉を用い)たのだ。それっぽく言うなれば「受動的褒賞」と言ったところか。

それでは「能動的褒賞」はどうだろうか。テストをみせて親側からその点数にリアクションを仕掛ける。

それもまた本心とは限らない。いい得点なら言及し、悪ければ言及しない、あるいは責めの意図で言及するかもしれない。

どのみちこのような文脈(場面)の中で褒賞を与えていることになる。「〇〇したから△△する」という方程式のもと「能動的褒賞」及び咎める発言は行われている。

従って、褒め言葉や励ましの言葉は、言葉本来の意味を心に宿して用いることの方が案外少ないと考えられる。

場面は

さて、私は言葉(発言)は場面に依存している、という考えを述べてきた。それでは特定の場面で特定の発言を予想できる、発言が結びついていると考えられるのは何故だろう。

それは相手を「信用」しているからである。

この人は「この場面でこのような発言をする」という考えがある。例えば「死にたい」と言えば「大丈夫何とかなるよ」「もっと他人を頼って」とこの人なら言ってくれるだろうという「信用」がある。しかしそれ故に実際にその発言をされたら「やっぱりそう言うことを言うよね...だって優しいから」と「期待を裏切らないという裏切り」の目に遭うことになる。

自分の想像を超えてこない発言は「場面に依存」した言葉であると思ってしまう。つまり相手は本心で心配しているのではなく、そのような場面だからこのような言葉選びをしているだけなのだ、と思ってしまう。

きっと実際には相手は本当に本人なりに色々考えて発言をしてくれているのだろう。だって優しいから。

相手が良い人であると知っているからこそ相手の言葉を鵜呑みにできない。

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