死ぬときは、立つ鳥跡を濁したくない
「他人様に迷惑をかけたくない」という、くだらない羞恥心を隠蔽した信条を持っているわりに、自分が死ぬときの想像をまったくしない人が意外と多い気がする。
3年前、わたしの母がステージ4の癌だとわかった。
母、父、兄、そしてわたしは揃って病院に足を運び、病気の進行具合と今後の治療方針を聞いた後、ルミネ池袋のつばめグリルでハンバーグをもりもり食べた。
その後、それまで母が管理していた銀行口座、保険、その他契約状況は、家族に共有された。
また、現在の家計の履歴は、新たに登録されたマネーフォワード(有料版)に流しこまれた。
そして、母の持つ財産は彼女の娯楽に最期まで使うというたいへん頼りになる意気込みを聞いた後、万が一残った場合はどうするかを話し合った。
最後に、いよいよ死を目前にしたとき、チューブ漬けにされたいか否かの希望が母の口から語られた。
縁起でもないと顔をしかめる人もいたけれど、わたしたちが(今この瞬間も)突き進んでいる死という不可避な現象に向き合わず、自分自身でさえ把握できていないモノやコトを残して逝くことは、とても、暴力的だ。
『バイオレット・エヴァ―ガーデン』(は最高だが、それ)に倣って感傷的な手紙を残したりする前に、現実にはやるべきことがたくさんある。
むしろ、それほどの思いがあるのであれば、残された大切なひとが、その後の人生を、健やかに、楽しく、そして、自分のことなんて思い出すことがないほどに前向きに生きていけるよう、立つ鳥跡を濁したくない。
ひるがえってそれは、今この瞬間、自分が心地よいと思える生活をすることに寄与してくれる気がする。