産休・育休第一号だった母
先日、実母と昔話をしていて、また同じ話が出て笑ってしまったんですね。
私は、出産時、逆子だった上に、首に三回へその緒巻いて出てきたそうです。
当然非常な難産で、なんと三日かかって産んだ子どもで、途中で産婆が退室して
休憩を取るなどのハプニングもあったそうです。
それでも何とか無事に五体満足で生まれてきたんですが、
生後十ヶ月で、https://ja.wikipedia.org/wiki/ブドウ球菌性熱傷様皮膚症候群
↑
これに罹患。
一昔前ならこれでコロコロ新生児が逝っていたそうですが、幸い抗生物質が開発された後だったので
命に別状はなかったんですが
あんまりにも珍しい病気だったので、地元の医大の講義に出たそうです。
生後10ヶ月で。
私医大出たんですよーw(赤子のサンプルとして)
その頃、母は育休を取っていたんですね。
母は市職員の保育士で
私は、市で女性が取る産休第一号だったそうです。
産休、育休を北上市の保育士で一番最初に取ったのが母。
それで、一年、出世が遅れていますが、あまり気にしなかったそうです。
その後、一歳児から私は、市の保育園に預けられて、母は仕事に復帰しました。
市の保育士だった母についてまわって、転園を繰り返し
卒園までに合計三カ所、場所を変わっています。
中には意地悪だった先生もいたけれど、どこの保育園だったか覚えてないww
小学校に上がってからは、四年生まで学童に通いながら、通学していました。
私は妹と弟が一人ずついて、母は、それぞれ2~3年ずつ開けて、出産したんですね。
それはすっごく、大変だったと思います。
市職員の保育士でしたので、朝番、中番、遅番のローテーションでフルタイム働いて
しかも女、女、男の順番の三人の子育て。
しかも、私は40歳手前で発見されたんですが、(知能指数には問題なかったのでわからなかったんです)
(北上市では小学生段階で、知能テストをやるんですね)
ADHD(注意欠損障害)で、忘れ物が異常に多かったり、癇癪持ちだったりする子どもだったので。
父も、正社員で夜遅く、自分の趣味というか生きがいの活動を別に持っていたので、
実質、母は、同じ市内にあった母の実家の力を借りて、自力で私たちを育ててくれたようなものでした。
そういうわけですが。
そういう母の苦労が見えるようになったのは、結構大きくなってからで、
子どもの頃は、無理なお願いを母に言った事もありました。
学童の先生と、私はそりがあわず、どうしても行きたくないと思うようなこともあったので、
母に「他の家のお母さんのようにずっと家にいて欲しい」と頼んだんですが
母は「なんで?」ときょとんとしているので、口でうまく説明出来ず、ぼんやりしてしまいました。
そのとき母は、持ち帰りの残業だと思うんだけど
分厚い出席簿や書類を、眼鏡かけながら必死に追いかけているところで
すぐに仕事に戻ってしまいました。
私はがっかりしたけれど、なんとなく空気で、そういうことは言ってはいけないことが
わかったけど
その頃から、何で家には、男以上に働くお母さんがいて
周りの家のように、いつも家にいるお母さんがいないんだろうと思いました。
そういう時代だったんですよ。
まだまだ、小学生や幼稚園の女の子に「将来なりたい職業」のアンケートを採ると
10位以内に「お嫁さん」が入るような時代だったんですね。
それでも母は、私が小学一年か二年ぐらいまでは、
自宅で日曜日にクッキーを一緒に焼いてくれた事があって、
(まあ、本当にまれな機会でしたが)
それが、結構、いい思い出として私の中には残っています。
私よりも小さな妹も手伝いました。
その後、母は次第に仕事が忙しくなっていき
それは父も同様で、
些細な事で喧嘩が増えて、
確か、夕飯の時に、父が
母を凄く怒って、そこにあったリンゴを母に向かって投げつけようとして
それが母の横のラジカセにあたり、ラジカセが壊れるというような事件もありました。
怒鳴られた事もありました。
その頃が、小学校三年から五年生ぐらいだと思うんですが
その頃、一時期、私はお菓子作りにはまり
母が買ってきてくれた子供用のお菓子作りの本を見て
ホットケーキミックスとかを利用してだけど
頑張って、ドーナツをあげたり
マドレーヌを焼いたりするようになりました。
それを、近所の家に配ったりもしました。
うっすらと考えていた事は、
お菓子を作ってくれた時のお母さんは、とても優しかったなあと言うことです。
優しくて、話しやすいお母さんでした。
いつもそうしてくれたら、嬉しいのに……と思いながら
一生懸命マドレーヌを焼いて、同じ学童の女の子の家に持っていきました。
あまり誉められはしなかったけれど。
その後、私も思春期に入り
反抗的な態度を親に取るようになって
それが結構長引いたりなんだり
まあ、自分でも、自分がADHDだと知らなかったので、癇癪が抑えられなくて、説教してくる親へ
怒鳴り返したりとか、色々あったんですね。
非行は一切なかったんですが
母との関係は、長い間、冷却状態でした。
色々なすれ違いがあったんだけど
それでも、何かの拍子に
「三日もかけて産んだ子どもだ」と言われると
本当に、生まれる時からして、親に痛い苦労をさせてすまなかったと思うんですが
(でもそれ私のせいじゃないよ)と思ったりもして、
複雑です。だけど、そのときに、この人からだから生まれてこられたんだと思いますね。
だけど、昔の事を思い返してみれば、
そのとき怒った、泣いた事はそのときのこととして、
母が、こんな状況で、子どもを三人大学まで出したということは、
凄く、誇らしい事だと思うし、
昭和の農家生まれの母が、頑張って頑張って、自分で選んだ道で短大へ行って、
自分でつかんだ人生なんだということは
変わらないのだと思います。
誰かが言ったけれど、0に出来ない縁は親子の縁だけだそうです。
だから縁を大事にしたいし、母は、今後も、自分だけの人生を楽しく充実させて
長生きして欲しいもんだと思いますね。
敬老の日に間に合わなかったけど
ありがとう、お母さん。
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