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【日曜美術館(2)】アニマルアイズ〜写真家・宮崎学〜

(注:カバー写真はイメージです)

独創的な動物写真を撮り続ける写真家・宮崎学に焦点を当てた放送回で、ずっと前に録画していたものをようやく鑑賞。

まず、勝手ながら僕の中にあった動物写真のイメージは、雑誌「ナショナルジオグラフィック」に掲載されているような、安全な場所から超望遠レンズで連写して撮ったようなものだったので「そんなの高価な機材と根気さえあれば誰でも撮れるじゃん」くらいにしか思っていなかった。

しかし、宮崎学は違う。まず彼は、自然界の生態系に熟知している。作中では、色んな野生動物の糞が集積している場所を見つけて「ここは、森の動物達のトイレ」だという。動物達はここで色んな糞の臭いを嗅いで、近くにどんな動物がいて、どんな食材(木の実や死獣の肉、カニなど)があるのかをテイスティングしているのだという。

そこに市販の監視カメラを置いてみると、出るわ出るわ、クマやウサギ、キツネ、タヌキ、ニホンザルなど、種々雑多な野生動物達の映像を確認できる。しかも、宮崎氏が監視カメラを置いて間もないタイミングでクマの姿が捉えられていて、我々が野生動物を撮影しようと試みているように「動物達も人間を見張っている」のだという。

それは、宮崎氏がかつて、日本中に分布する全てのタカ・ワシの写真を撮っていた際の出来事とも重なる。氏が樹上に簡易テントを張って撮影チャンスを待っていたところ、どうもワシの動きがおかしいことに気付いたという。なんとなれば、こちらがカメラを構えて「撮影するぞ」というオーラを全開にしていると、ワシの方もその殺気を感じ取って近寄ってこないのだと。

このエピソードは、カメラがいかに暴力的な挑発装置であるかを思い出させるものだ。試しに人間を撮る時のことを想像してみてほしいが、撮られる側がいかに拒絶しても、カメラはその拒絶している姿をして丸々写し撮ってしまうのだ。

また、どんなに日常の何気ない風景を撮影したくても、そこにカメラが介入することで途端に非日常空間へと変貌してしまう。よくある「カメラ目線」なんて序の口で、人によっては明らかに演技をしてしまう人もいる。どんなに時間をかけてカメラの存在に慣らしていったとしても、それは所詮「慣らされた現実」に過ぎず、原理的にどこまでいっても作為性を排除することは不可能である。カメラは、このように、否応なく現実を改変する暴力性を有しているのだ。

こうした「カメラの暴力性」は、特にスナップ写真やドキュメンタリー映画を撮る人間ならば誰しも一度や二度は心当たりのあることだと思うが、翻って動物に対しても「殺気」という形で影響を与えるものだということは、初めて知った。

そこで氏は「野生動物がカメラの前を横切った時だけシャッターが下りる無人カメラ」を自作したという。いわゆる「動体検知カメラ」のことだが、それが一般化される以前に自作してしまうのだから、氏の技術力の高さにも脱帽せざるを得ない。

そうして人間の気配を消して、野生動物のありのままの姿をカメラに収めた写真が、とりあえず氏の作風だと言えよう。

ただ、上述したように、たとえカメラの前に人間が立っていないからといって、一切の作為性を排除したことにはならない。まず、どこにどのような機材をどういう設定で置くのかという事前準備が存在するし、撮影の瞬間に光るフラッシュに驚いて表情を変える野生動物もいるだろう。そもそも撮影機材が山の中にあるというだけで、野生動物にとっては人間の臭いのする「不審なモノ」だ。

だからこそ、逆に作家性を捨てたことにもならないのだが、氏が動体検知カメラを使い出した頃は「アイツは自分の指でシャッターを押していない」と、氏を批判する同業者も少なくなかったという。

そんな馬鹿な。僕からすれば、絵画や音楽が絵筆や楽器を巧みに扱う特別な技術を要求する「閉ざされた」芸術であるのに対して、カメラは多少の知識さえあれば、誰だって人差し指一本、コンマ何秒の動作で勝負できる「開かれた」芸術だ。そんなコンマ何秒の動作だって、あろうがなかろうが大した差はない。むしろない方が、さらに万民に開かれた芸術になり得る可能性を秘めているくらいだというのに。

それはさておき、氏の関心はやがて環境問題にも向けられる。つまり、人間と自然との共存についてだが、面白いのは「自然環境を破壊する人間は愚かだ」というありきたりな言説に終始するのではなく、むしろ「人間は自然を破壊しているけれど、野生動物だって人間社会に上手く適応して生きているんだよ」という、動物側に立った斬新な視点で撮影していることだ。

例えば、野生動物の後ろ姿越しに都市風景を撮影した一連の作品群には、上述した「野生動物だって人間社会を見ているんだぞ」というメーセージを込めているという。その証拠に、近年、野生のシカは急激に数を増やしているらしいが、その原因の一つは、冬季になるとあらゆる道路上に置かれる凍結防止剤、いわゆる塩カルから必要な栄養素を摂取しているためだという。

国及び地方自治体が自動車の安全運転のために実施している施策が、実は思いがけないところで野生動物の生態系に影響を与えていたのだ。こうした例は、丹念に調べていくと枚挙に暇がないだろう。

ここでちょっと思い出したのが、スタジオジブリの高畑勲『平成狸合戦ぽんぽこ』と、近藤喜文『耳をすませば』の2つの映画だ。前者はタヌキ目線で山が開拓されていく様子を批判的に描いた映画であるのに対し、後者は『ぽんぽこ』で開拓された多摩丘陵が「多摩ニュータウン」に様変わりして、主人公の少年少女が夢に向かって生きる街として好意的に描かれている。

映画のラスト、バイオリン職人を目指す少年・天沢聖司が、想いを寄せる少女・月島雫に「俺、ここから見る景色が一番好きなんだ」と話す。「わぁ、綺麗」と雫。その景色こそ、山を切り拓き、数多くの野生動物の犠牲の上に建設された場所なわけだが、人間の住む街となった今、そこではきっとたくさんの人達が泣いたり笑ったりして各々の人生を送っていることだろう。

これが人間側に立った目線であるのに対して、宮崎学の写真は真逆の視点から、つまり野生動物の後ろ姿越しに都市風景を撮影している。そこにはもちろん環境破壊に対する批判の色もあるにはあるが、少なくとも作中で紹介された写真からは「俺、ここから見る景色が一番好きなんだ」「わぁ、美味しそうなものがいっぱいありそう(残飯)」くらいの、何とも逞しい野生の声が聞こえてきそうな気配を湛えていたのが印象的であった。

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