【読書感想文(5)】夏目漱石『坊っちゃん』
誰もが知る文豪・夏目漱石による本作、大昔に角川文庫版を購入して家にあったが、ただ今絶賛独りで「岩波文庫チャレンジ中」なので、改めて岩波文庫版を購入し直して読了。
まず感心したのは、「坊っちゃん」という呼び名に込められたダブル・ミーニングだ。一つは下女の清が親しみを込めて主人公を呼ぶ際の「坊っちゃん」、もう一つは敵役・教頭の赤シャツと美術教師の野だいこが主人公の少年の如き無鉄砲を揶揄して呼ぶ際の「坊っちゃん」。
そう、「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりして居る」坊っちゃんは、良く言えば竹を割ったような性格、悪く言えば「青二才」なのである。
坊っちゃんは、心の中では「赤シャツ」だの「狸」だのとあだ名を付けて馬鹿にしているくせに、言葉巧みに口先で丸め込まれることも多く、それを自分でも自覚しているため言いたいことがあっても結局言わないというヘタレっぷりも随所に垣間見える。そのくせ無鉄砲が炸裂すると思いがけない行動を取るため、策士側からしても少々扱いづらい部分があるようだ。
でも、現代でいえば、坊っちゃんは「新卒1年目」である。かくいう僕も新卒1年目の時は、理不尽な社会常識を馬鹿にして生意気な言動を多くしたものだし、青臭い正義を掲げたりもした。
それが社会の荒波に揉まれて年数を経るにつれ、どんどんスレていく。多少の不正や問題であれば、わざわざ関与するのが面倒だと考えて、あえて目を瞑り、事なかれ主義に傾倒していく。本作の「宿直事件」における会議の様子など、ある程度腐敗した日本社会では、結構「あるある話」ではなかろうか。
あるある話といえば、英語教師うらなりの送別会の場面だ。酒が入ると次第にドンチャン騒ぎの場へと化していくのだが、実は皆、送別会という大義名分を盾に酒を飲みたいだけで、本当にうらなりを送別する目的で出席した者など皆無なのだ。
僕は田舎の消防団に入っているので、歓送迎会と称して酒池肉林の酒宴を設け、コンパニオンが酒をついで回るなんて光景はザラに見てきた。酔っ払いでも特に年寄りは歌を歌いだしたり、太鼓を叩いたりなど、ほとんど半狂乱状態になることも少なくない。
そういう意味で、現代でもリアリティを持って読者に訴えかける場面が非常に多い。まぁ「100年前から日本はこんなに馬鹿だったんだな」と思うと、ほとんど絶望に近い笑いしか出てこないのだが…笑
閑話休題。坊っちゃんと山嵐は復讐を果たして故郷に帰るので、見事に大団円を迎えたように思うが、実はそうではない。結局、彼らは教師の職を失った上、土地も追われてしまうのだ。これでは、試合に勝って勝負に負けたようなものである。
これを漱石の生きた時代、つまり江戸から明治に移り変わる時代の「敗者の美学」と論ずることが出来る。無論、生粋の「江戸っ子」の坊っちゃんや「旧旗本家出身」の清、「会津っぽ」の山嵐が「江戸時代=敗者側」で、明治時代の学問の最高峰「旧帝大出身」の赤シャツが「明治時代=勝者側」という構図である。
あるいは、「正義」と「悪」という単純な二項対立に落とし込んで勧善懲悪の物語と読むことも可能かもしれないが、果たして赤シャツや野だいこが本当に悪なのかという問題が残る。
実際、限りになく黒に近いグレーだろう。赤シャツがうらなりの許嫁マドンナを奪ったのだって、自由恋愛なのだから未婚である以上は仕方がない。うらなりが全力で阻止すれば良かった話だし、あるいはマドンナの方から赤シャツに言い寄った可能性すらある。町一番の美女が、好き好んでうだつの上がらない男と結婚するだろうか。江戸時代じゃあるまいし、学歴も地位も給料も高い赤シャツを選んだって不思議ではない。
その他の人間関係のゴタゴタだって、赤シャツが裏で糸を引いていた証拠はどこにもない。まぁ、証拠を残さないからこそ、悪知恵に長けた人物だと坊っちゃん達から揶揄されるのだが。
その点、坊っちゃんと山嵐が最後に訴えた手法は、相手を殴るという明らかな暴力だ。それも自己防衛ではなく、暴力が警察に逮捕されうる行為であると分かっていながら振るう一方的な暴力である。
もちろん、どんな理由があろうとも、法治国家において暴力は許されるものではない。だから、見方によっては、坊っちゃんと山嵐こそ悪だということも出来るのである。
まぁ僕だって赤シャツや野だいこのような、権力を笠に着て、気に入らない相手を裏で画策して陥れようとしたり、不正や悪事に加担するような輩は大嫌いだ。社会悪だと思うので、この世から消えて欲しいと心から願っている。
だから、たとえ不器用でも、坊っちゃんや山嵐のような正義感に溢れた人間が増えれば、この世界も少しは良くなるかもしれないと夢想したりもする。
でも、暴力に訴えるのは違うと思う。それは漱石もおそらく理解していて、赤シャツらを殴った後、下宿に戻った坊っちゃんらは、疲労から眠りこけてしまう。起床後、彼らが真っ先に口にした言葉は「巡査は来ませんでしたか?」だ。「誰も来ませんでしたよ」という店員の言葉を聞いて胸をなで下ろす二人だが、この場面は心底ダサいと感じた。というか、漱石がダサく描いているのではと思った。
だって、自分達のしたことが、たとえ正義感に後押しされたものだとしても、暴力を暴力として理解しているのであれば、本来は別の方法で解決すべきだし、最悪暴力を振るってしまったならば、自らの意思で警察に出頭するのがせめてもの筋だろう。
そうしなかった坊っちゃんは、東京へ帰って、教師ほどの俸給はないにせよ、鉄道技師の職を得て、めでたく清と家を構える。が、楽しい生活は数ヶ月足らずで終わりを迎える。清が肺炎にかかって亡くなってしまうのだ。
「坊っちゃんはいずれ大成する」と信じて、唯一坊っちゃんを愛してくれた清の死とともに、「坊っちゃん」は「終わり」を迎えるのである。ここに、江戸時代が終わったとみることが、あるいは可能かもしれない。
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