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ボロ雑巾な伯爵夫人、やっと『家族』を手に入れました。〜世間知らずの夢の成就は、屋敷ではなく平民街で〜 第十七話

「うーん。今日はお洗濯、しない方が良いでしょうか……」

 家の外。井戸の水で顔を洗って目を覚ましてから、空に昇った太陽を見上げ呟いた。
 天気のいい日もあれば、当然良くない日も存在する。最近は比較的天気がいい日が続いたが、今日は太陽に光の輪が掛かっている。

 たしかあれは昔、実家の領地に居た時にお母様が教えてくれた雨降りの前兆だった筈。
 今日も仕事で『ネィライ』に行く。その間に雨が降ってしまったら、せっかく洗濯をして干していてもまたやり直しになるだろう。

「今日は止めておきましょうか」

 誰に言うでもなくそう言った。
 代わりに朝の空いた時間に、少し手の込んだ晩御飯の仕込みでもしようか。先日野菜を売っているおばさんから「煮物は作り置きしておいた方が味が染みて美味しいのだ」と教えてもらったのである。

 ディーダもノインも野菜を食べない訳ではないけれど、それ程好んで食べている風でもない。二人とも、油滴るような肉と濃い味が好きな傾向にある。
 けれどそれは、あまり体に良くなさそうだ。彼らの健やかな成長を思えば他の方法で何とかしたいと、前々から少し思っていた。

「うん、試しに一度やってみましょう」

 頑張るぞ、と心を決めて、まだ二人が眠っている住処の中へと入る。
 最初こそ早く起きて動く私が出す物音にモゾリと寝返りを打っていたけれど、最近は少し慣れたのか、よほどの音を出さなければ二人とも眠そうな顔で私を睨んでくるような事もなくなった。

 淡いグリーンのワンピースの上から、簡素なエプロンを付ける。バイグルフさんから頂いた端切れを縫い合わせて作った手作りで、お気に入りの服を汚さないためのものである。

 朝ごはんは、昨日買ってちぎり水につけておいたレタスに、目玉焼きをパンに挟んだサンドイッチ。あらかじめ作っておいたソースを付けるとして、あとはスープだ。
 それとは別に、煮物も作ろう。トントン、コトコトという控えめな音を立てながら、そちらの方の準備も進める。

 薪で火を起こす事にも、もうすっかり慣れている。料理の手際も以前より、心なしか良くなったような気がしている。
 そして何より、どんな顔でこれを食べるのか、二人の姿を想像しながら作る料理は楽しくもある。段々鼻歌交じりにもなる。

 火にかけた鍋に、ちょうど野菜を入れて肉を入れて調味料も投入した。
 おばさんに聞いた『おとしぶた』という物をした時だ。背中越しにゴソリと何かが動いたような気配がする。

「んー……」
「おはようございます、ノイン」

 上半身を床から起こした彼に言えば、第一声で「なんかお腹減った」と言われた。思わずフフフッと笑いながら「今日は晩御飯の仕込みをしているからですかね」と答えておく。

「顔を洗ってきたら朝食にしましょう。目玉焼きを焼いておくので、ちゃんと顔を洗ってきてくださいね」
「ん」

 朝が苦手らしいノインは、起きがけはいつもより少しだけ素直だ。
 頷いたのか、ただの掛け声じみたものだったのか、声と共に彼はのそりと立ち上がった。
 少々おぼつかない足取りでいつものように井戸を目指す後ろ姿の、ピョコンピョコンと跳ねる寝癖が微笑ましい――などと思っていたところ、道すがら彼はバッチリとディーダのどこかしらを踏んだようである。

「ぐえっ」

 起きがけの第一声に潰れたカエルのような奇声を上げさせられた彼は、腹を抱えて上半身をむくっと起こす。朝っぱらから「てめぇノイン!」と噛みついて、追いかけて彼も井戸へと向かった。
 いつもの朝だ。

 いつものように顔を洗えば、寝ぼけたノインも目を覚ますだろう。
 戻ってきた二人のためにと、私は火にかけてた新しいプライパンの上に油を引いて卵を割った。

 ◆◆◆

 鼻歌交じりに店の棚の整理をしているのは、今日は一日バイグルフさんが店に来ないと知っているからだ。
 お客様やバイグルフさんが居る時は恥ずかしいので封印しているのだけれど、今室内には誰も居ない。ふんふんふーん、とどこかで聞き馴染んだメロディーを鼻でハミングしながら、はたきでパタパタと布の棚を掃除していく。

「それにしてもバイグルフさん、良い目利きなのよねぇ。一昨日入荷したこの布も、とても綺麗に染色されてて……」

 今日も色とりどりな棚の布たちを眺めながら、そんな事を考えた。
 色ムラがなく染められているというのは、どうやら生地そのものの質と同じくらい、布にとっては重要らしい。

 実際についている値札を見れば一目瞭然だし、たしかに街中を見れば使われている色は色ムラが目立つものもかなり多い。
 思えば貴族時代に来ていた服たちは、全て綺麗に染まっていた。
 もちろん中にはグラデーションや部分的な色付けをしているものもあったけれど、やはり意図してやっているだけあって、そういう品は綺麗なのだ。やはり見え方が違う。

 おそらく置かれている環境にもよって品質にも変化が見えるのだろうが、よく見れば色褪せないような商品の配置や陰干しなどの定期的な商品への配慮など、随所に布を大切にしているところが見られる。
 彼は「陰干しやら何やらと、金にもならない手間を先代が『やれやれやれやれ』煩くってな」と笑っていたけれど、その手の作業が結局彼にも習慣付いているのだから、やはり彼も何だかんだで『お金にもならない習慣を丁寧に続けているマメな人』なのだ。
 私はそこに、布屋としての欣嗣を感じる。

 そういう所で働けて嬉しい。
 そう思えば、鼻歌にも一層の力が入るというもので――。

 カランカランと、ドアベルが鳴った。振り返り「いらっしゃいませ」と言おうとする。
 今日は、いつもと変わらぬ朝だった。少々天気は悪いけれど、それでも今日も穏やかで楽しい一日になるだろうと何故か、過信していた。

 入り口を見て、そこに立っていた人を認識して、思わずヒュッと息を呑んだ。

「本当にこんな所に居たのだな。報告通り、どうやら平民風情に上手く取り入ったらしい。よくもそんな、プライドの無い事ができる」

 バカにしたような、蔑むような、見下したような声だった。

 ウェーブかかった金髪に、青い瞳の少年。彼の後ろ――扉の向こうには停められた馬車が見切れていて、開かれた扉の脇には妙齢の執事が一人。車体には、鋭い眼光の雄々しく羽ばたく鷹の紋章が刻まれている。

 そのどこを切り取っても、私は心当たりがあった。
 分からない筈がないではないの。彼の顔も、馬車の紋章も、私はよく知っている。

「マイ、ゼル……」  

 そこに居たのは間違いなく、私をずっと「こんな女と血が繋がってるなんて、ホントに反吐が出る」と罵って、私をあの屋敷から追い出す事に賛成し、お腹を痛めて生んだ息子・マイゼルだった。

 何故ここに、どうしてここに。
 平民街になんて来るはずのない彼がこの場に居るという事実に、私は混乱し大いに怖れた。

 あの屋敷から追い出されてから、色々な人に出会って、支えてもらって、必要としてもらえたりもして。最近あまりにも楽しかったから、周りの人々が優しかったから、いつの間にか都合よく、屋敷での記憶を頭の奥底に封じこめてしまっていた。
 そんな卑怯で弱い自分に否応なく気付かされて、私は大きく絶望する。

 いえ、できる事なら彼の事は思い出したくなかった。悪い母親だという自覚はある。しかしそれでも、彼を見て心が急速に冷えていくのを止められない。

 記憶の奥底にこびりついている『息子に自身を否定され続ける事への恐怖』が、私の体を恐怖に震わせた。
 きっと彼は、そんな私に気がついている。彼が私を蔑むような、それでいてとても楽しげなニタリ顔になった事でそうと分かった。

「貴様の事だ、どうせろくな生活など出来ていないんだろう。どこに行ってもゴミはゴミ、嵩張るだけのお荷物だ。周りに迷惑を掛ける事でしか存在さえする事ができない」

 恐怖が絶望に成り代わり、周りの人々に温めてもらった私の心をじわじわと浸食していく。
 半ば無意識に拳を握れば、既に冷えている指先を手のひらの中で感じた。しかし冷えは熱で癒される事もなく、むしろ伝播し体を冷やす。

「しかし喜べ、俺が正式に貴様をメイドに雇ってやる。仕方がなく、今までの生活水準も保障してな」

 反射的に、嫌だと思った。しかし言葉にはならない。
 心臓が、耳のすぐ隣で嫌な音を立てた気がした。それが今私の体が起こせる精一杯の抵抗であるかのようだった。

 心にまで及んでしまった冷えが、麻酔のように心の痛みを鈍化させていく。
 まるでフィルターでもかかってしまったかのように、自分の心を見失う。

 私は彼らに逆らえない。敵わない。どうにもならない。ならば諦めるしかない。
 まるで『反抗意識を抱いてはいけない』と本能に刻み決まれているかのように、そうでしかあれない自分を諦めるという仕組みが、私の中には根を張っていた。

「来い」

 そう言われても、足は動かない。足がすくんでいるだけなのか、拒絶の意思なのかも、段々と分からなくなってきた。しかし無情にも、苛立ったマイゼルがつかつかと店内を歩いてきて私の手首を引っ掴む。
 硬直した体が、乱暴な力にたたらを踏んだ。

 踏ん張れない。振り払えない。だけどここで明確に『嫌だ』という感情が息を吹き返した。

 泥だらけの哀れな革袋と薄汚れた私、もし今もまだ一人と一つだけだったなら、きっとここまで恐れたりしなかったのかもしれない。
 けれど私はもう、ディーダとノインとの三人暮らしを知ってしまった。街中を歩き買い物をして、ここで店番をしたり新たな物を作りだして売る楽しさを知ってしまった。
 そんな生活に慣れてしまった。誰かと話し、一緒に笑い、美味しいものを食べたりもする。そんな生活が楽しいと気付いてしまったから。

 もっとここに居たい。
 ずっとここに居たい。
 街の人達と、このお店とバイグルフさんと、そして何よりも彼らと。

 温かい場所の存在を知り、少しは過去を客観的に見る事ができるようになった今だからこそ、過去に受けた仕打ちがどれだけ酷いものだったのかを今更理解できる。
 あんな生活に戻ったら、今度こそ私は壊れてしまう――そう思うのに。

 一歩ずつ出口が近づいてくる。外にいる馬車の鷹が、私をまるで「煩わせるな」とでも言わんばかりに見下している。

 目尻から零れた涙だけが、最後の最後に明確な熱を持つ私のただ一つだった。
 しかしそれも、頬を伝って顎を伝って、雫となって床板に落ち――。

「だから黄色だろ!」
「黄緑でしょ」
「フンッそこまで言うなら話は早い、実際にやってみれば――あぁ?」

 いつも通り、窓を出入り口にしようとしたのだろう。窓淵に片足を掛けた音が店の脇でたしかに聞こえた。

 まるで金縛りから解けたかのように、彼らを探して振り返る。
 涙でぼやける視界の先、野犬のような警戒を発する金色の瞳の少年が、眉間に不機嫌そうな皺を寄せたのが見えた。

 いつにも増して、ディーダが乱暴に窓枠を飛び越えた。ダンッと大きな音が立てて、弾かれたように一歩を踏み出す。
 気がつけば、私のすぐ隣――私の手首を掴んだ彼の手を、強く捻り上げていた。

 マイゼルが、鈍い悲鳴を上げディーダの手を乱暴に振り払う。手首を庇いながら後ずさって、彼を睨み、激昂する。

「何をする貴様!」
「てめぇこそ何だよ、っていうか誰だ」

 マイゼルの怒りに反射的に委縮した私とは裏腹に、ディーダが一歩前に出る。偶然なのか配慮なのか、マイゼルの怒りの形相から守ってもらう形になった。

「状況はよく分からないけど、とりあえず弱い者いじめしてカッコ悪いとは思わない?」

 ノインもヨイショと窓から入り、そんな声をマイゼルにかける。静かに観察するようなあの薄桃色の瞳が、無意識のうちに敵を威圧しているように見えた。

 侵入経路に驚いたのか。それとも自分にたてつく人間が居る事に驚いたのか。
 一瞬固まったマイゼルは、しかしすぐに「弱い者いじめ?」と大仰に片眉を吊り上げる。

「これは俺の所有物だ、持ち主がどう扱おうが貴様らには関係のない事だ!」
「はぁ?」

 思わず、と言った感じでディーダが呆れた声を上げた。
 心底「意味が分からない」と言いたげだ。が、そのニュアンスが更にマイゼルの癇に障ったのだろう。

「何だ貴様ら、平民如きが。この俺の会話に横槍を入れる無礼を知れ!」

 カッとした声で繰り出された言葉に、二人の登場でほんの一瞬取り戻し始めていた平常心が霧散したのが分かった。

 屋敷での事がフラッシュバックする。
 しかしそんな私に、もう一つの脅威が忍び寄る。

「お前こそ何様だ? ここは平民街だっての」
「貴族がわざわざ降りてきてやったんだ。平民は皆、平伏して然るべきだろうが!」
「はっ、一体どこの常識だよソレ」

 私の事を物扱いだという事や、レイチェルさんの口癖だった「平伏して然るべき」がそっくりそのまま彼の言葉として吐かれている事。彼が私以外にも子のような物言いをしているのだと初めて気付かされた事など、すべてがどうでもよくなった。

 マイゼルに喧嘩腰を崩さないディーダ。彼ほど表立って喧嘩を吹っ掛けていないように見えて、むしろ彼よりもずっとマイゼルを煽る言葉を選んでいるノイン。
 貴族にもまったく怯まないのは、きっと彼らが貴族を知らないからだ。

 ドゥルズ伯爵家の人間は、この街に対して必要最低限以上の干渉をしていない。それはすなわち庇護をほぼ与えていないという事でもあるが、同時に直接的に害を与えていないという事でもある。

 しかしそれは、結果論に過ぎない。
 彼らはドゥルズ伯爵家を知らない。マイゼルという子の性格を、現状を知らない。
 彼が今目に見えて機嫌が悪いのだということは私でなくとも分かるだろうけれど、彼という存在が貴族が持つ権限を――統治下であるこの土地では、彼が言葉一つで誰かの生き死に決定づけられる事を、彼らはまったく知らないのだ。

「大体貴族が何だってんだよ」
「貴族なんて、権力の上にふんぞり返っているだけの人間の総称だけど、そんなものを掲げて喜んでるの? うわぁ、可哀想」

 無知が故の危うさに、私は制するための手を伸ばした。
 しかしそれが二人に届く前に、マイゼルがバカにしたように笑う。

「はっ、はははっ、貴様らはそいつが誰か知らないのかよ」

 ハッとした。
 彼が今一体何を言おうとしているのか、分かったから。
 しかし静止は間に合わない。

「待っ――」
「そいつは俺の母親、フィーリア・ドゥルズ。ドゥルズ伯爵家の第一夫人だ。つまり貴様らが庇ってるソレも、漏れなくお前らがバカにしている『貴族』なんだよ! バカが!!」

 演説じみた身振りと手ぶりだった。二人に事実を突き詰めて、知らしめるような物言いだった。

 私が隠していた事だと、きっと気がついたのだろう。ざまぁ見ろとでも言わんばかりにマイゼルは言葉を吐く。

 二人が固まったのが、気配で分かった。その事実が、私に新たな恐怖を生む。

 バレてしまった、ずっと隠してきた素性を。

 二人が貴族に対してあまりいい感情を抱いていないのは分かっていた。二人と暮らす上で浮き彫りになった伯爵家のこの領地への管理の杜撰さを思えば、それは当然の事である。
 だから知られたくはなかった。
 私がここに住まう人たちを見ず、どうにかする権力を持ちながら、何もしてこなかった家の一員だという事を。彼らが嫌う、貴族なのだという事を。

 知られてしまったからにはもう、今までと同じ生活は送れないだろう。
 その事実が何よりも痛くて苦しくて辛くて、マイゼルへの恐怖も二人への心配も、全てがサッと塗りつぶされた。

「この女はなぁ、今すぐ屋敷に帰るんだ。貴様らが一生かけても関わる事のできない貴族の世界に返って、一生俺の下でこき使われる。それがこの女にとって、最上の幸せというやつだ!」

 もう二度と、大切な人から拒絶されたくはなかったのに。
 でも、マイゼルの心ない言葉で裏切られ、ザイスドート様から棄てられて、心を許せば許すほど辛いのだと私は知っていた。知っていたのに、また私はここで大切なものを見つけ、心を開いてしまったのは私である。
 自業自得も良いところだ。俯き、ギュッと目を瞑る。

 が、その時だ。
 
「はぁ? お前何言ってんだ?」
「はぁ? アンタ何言ってんの?」

 綺麗にハモッた二人の声に、思わず目を見開いた。
 すぐ隣まで来た足音の方を見れば、半歩前にノインが居る。

【各話リンク先】
第一話:https://note.com/rich_curlew460/n/n02b3af7df971
第二話:https://note.com/rich_curlew460/n/nc5a6a501aa1c
第三話:https://note.com/rich_curlew460/n/nf657217e33a7
第四話:https://note.com/rich_curlew460/n/n0bcd36a46767
第五話:https://note.com/rich_curlew460/n/n76ef05998ecb
第六話:https://note.com/rich_curlew460/n/n1da0c89af729
第七話:https://note.com/rich_curlew460/n/nd2f55ce8792d
第八話:https://note.com/rich_curlew460/n/n5b17d5a00e7f
第九話:https://note.com/rich_curlew460/n/n1d1b17ac74db
第十話:https://note.com/rich_curlew460/n/n508f3f9cf98a
第十一話:https://note.com/rich_curlew460/n/n68142bd1a7f9
第十二話:https://note.com/rich_curlew460/n/n20fe7909dbbb
第十三話:https://note.com/rich_curlew460/n/n629e515995eb
第十四話:https://note.com/rich_curlew460/n/n5f55eb566615
第十五話:https://note.com/rich_curlew460/n/n3ba31d611423
第十六話:https://note.com/rich_curlew460/n/nbca0203283b1
第十七話:(←Now!!)

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