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離婚後のメープル

この記事は


離婚後


【メープルの離婚の話し】続きになります。
そちらを先にご覧下さい。

では続きを書いていきます。

、、、

、、、

、、、

元嫁が僕らから去った後、

自宅のマンションに帰り、荷物を持てるだけ
持ち、実家に向かった。

離婚が成立した事、
息子の親権を僕が持つ事で
話しの折り合いがついた事を
両親に告げた。

父と母は黙って聞いてくれた。

そして、これからの事を話した。

僕は息子の親権を取ると同時に
美容師を辞める覚悟もしていた。

美容師の仕事は拘束時間も長く
子育てをしながら、続けていくには
なかなか、厳しい現実も分かっていた。

こんな形で美容師を諦める事に
と、悔しい気持ちも込み上げてきたが
仕方ない、、、

転職しようか…

その旨を伝えると

母は
「貴方のやりたい事をやりなさい」
「美容師を続けたいのであればみんなで
サポートするから」

そう、言ってくれた。

涙が出そうになった。

ありがたかった…

その言葉に甘えて

僕と息子は実家に身を寄せる事にした。

実家を出て、こんな形で
戻ってくる僕、そして息子を
両親は快く、受け入れてくれた。

奔走

まずは生活の基盤を安定させる必要があった。

父は仕事を辞め退職していたが、
体を壊していて、一人で歩ける状態でなかった

母は仕事をしていて、
朝から晩までフルタイムで働いていた

僕も仕事がある

現実問題、早急に保育園を
見つける必要があった。

その他にも引越しの準備

市役所での手続き

など

やる事は山積みだった。

季節は3月末

母が先に保育園の空き状況を
市役所に聞きに行ってくれた。

保育園の募集時期は過ぎており
どこも空きが無い状況だった。

とりあえず、無認可の保育園で
保育実績をつみながら、待機するか!?

それだと、金銭的にも負担が大きくなるが
背に腹はかえられない…

母と相談しながらも答えは出なかった。

どうしようか?

と、考えても埒があかないので

僕は一旦、市役所に相談に行く事にした。

窓口に案内されて、要件を伝えた。

しばらくすると担当の人が来てくれた。

歳は50代くらいだろうか?
優しそうな女性の方だった。

僕の話しを親身に聞いてくれ心配もしてくれた。

女性
「大丈夫?やっていける?」
「保育園の空きが見つかったらすぐ
連絡するから、頑張ってね」

と言って頂いた。

一人親の手続き関係も詳しく教えてくれた。

当面の保育をどうしようか?
と考えながら、家に一旦帰宅。

と、同時くらいに

電話がかかってきた。

市役所の女性からだ
「今すぐ○○○保育園に行ける?」

半ば、諦めていたところ
救いの電話だった。

僕は、二つ返事で
「はい!本当にありがとうございます」


早速保育に向かった。

園長先生が対応してくださった。

とにかく、時間がなかった。

この時点で
入園式の3日前だった。

入園の準備を3日でする必要があった。

時間が無いからできない。
の選択肢は無かった。

1番急ぎだったのは、息子の健康診断書。
今すぐ取りに行かないといけなった。

説明を聞いた後すぐ、
指定の小児科にいき
書類を書いてもらい、すぐに保育園に戻って
提出した。

そこから、
保育園に必要なものを買い揃える

母、兄弟が総出で手伝ってくれた。
総力戦だった。

この時に、対応してくださった
市役所の方々、そして家族には
感謝してもしきれないくらい
助けてもらった。

本当に有り難かった。

助けてもらいながら、バタバタの数日を経て

なんとか保育園の入園式を
迎える事が出来た。

保育園


はじめての保育園

まずは慣らし保育からだ。

2時間くらいの保育時間からスタート。
一週間くらい続き
そこからやっと、一日預かってくれる
ようになる。

息子もはじめての環境で
泣いていたが、直ぐに慣れてくれた。
最初の慣らし保育は難なく
クリアしてくれた。

順調で良かった、、、
と一安心した。

いよいよ、本格的な
保育の開始。

しかし

保育園の洗礼はここからだった…

息子を保育園に連れて行き
職場について、仕事し始めると
保育園から電話が…

「お父さん…お熱が…」

この流れは、保育に預けるようになってから
1年くらいは定期的にあった。

お店に保育園から電話がかかって
くるのだが、頻度でいえば
1週間に1回くらいあったと思う。

そのたびに職場のみんなに
事情を説明し、迎えに行った。

僕もお客様のご予約がある時は
なかなか動けなかった。

その度にお客様に待ってもらい
バックルームで、家族LINEに
SOS…

誰かしら、なんとか時間を作り
息子を迎えに行ってくれた。

保育園の初期は
本当に助けてもらった。

特に母は自分の仕事をそっちのけで
息子の事をみてくれた。

感謝してもしきれないくらいだ。


保育園に通いはじめた時は

家→保育園→市役所→職場
と、朝の流れはこんな感じだった。

やる事がかなりあったが
少しづつ消化していった。

が、一つ
大きな事が残っている。

マンション


マンションの事だった。

僕と元嫁は
協議離婚だった。

金銭の事は一切、僕が引き受ける事にしていた。
かつ、慰謝料も請求しない事で
手打ちとなっていた。

なので、マンションの売却をしないと
いけなかった。

結果としてマンション売却はなかなか
買い手がつかず難航した。

結局値段を下げて売却。
ローンの残債以下では売る事が出来なかったので
持ち出し金、約150万円必要だった。

この当時、僕は結婚生活で
貯金が底をついていた。

悩んだあげく、
父と母に相談した。

父と母はお金を工面してくれた…

家を出て、離婚して帰ってきたら
子供を連れている。
しかもお金の尻拭いまでしてくれた。

大人になってまで親に助けてもらう
自分自身が、
本当に情けなくなってしまった。

申し訳ない…

そんな想いでいっぱいだった。

そんな、ある日
元嫁から、電話がかかってきた。

僕は警戒した。

何を言い出すか分からない…

そんな一抹の不安がありながらも
電話に出た。

内容は、子供の児童手当の
請求だった。
婚姻時の最後の振り込みは僕の通帳に
入っているようで、そのお金を
振り込んで欲しいと

そして、

家財道具の売却したお金の請求だった。

息子の事は
何も言ってこなかった…

請求に対して、理不尽な
気持ちになったが

気分を逆撫でると何を
言い出すか分からなかった

黙って支払う事にした。

なんだかなぁ…

気持ちのいい連絡ではなかった。

父の死

息子も少しづつ保育園に慣れはじめた6月

父の容体が悪化した。
誤嚥性肺炎だった。

タクシーで病院に向かうと
受付近くにいた看護師さんが
父の爪をみて、慌てだした。

直ぐに緊急入院となった。
約3週間の入院生活だった。

頑張ろうとした父だった
体力のある人間であれば
持ち直していただろう。

けど、父には持ち直すだけの
体力が残っていなかった。

最後はしゃべる事さえ
ままならなかった。

最後の最後まで
僕や家族の事を心配してくれた

父の最後は僕を助けてくれた

息子の僕が言うのもあれだが、
父は本当に誠実な人だった
寡黙だったが、時間やお金を
家族の事でしかほとんど使わなかった。
今でも、そんな生き方に尊敬と感謝しかない


まともに、親孝行出来なかった後悔

そして

父の生き方の偉大さを痛感した。


父の死は 6月の末だった


父の死から
少しづつ日常が戻りはじめたころ

元嫁からの連絡

元嫁からLINEが来た。

「話したい事があるから、電話したい」

との事だった。

元嫁からの連絡は
ロクな事がない。

僕は警戒しつつも、

電話してみた。

元嫁 「10月に子供が産まれる」

一瞬、理解が追いつかなかった。


僕「もしかして、離婚協議の時に妊娠
知っていたのか?」


元嫁「知らなかった」

この時、元嫁が息子の親権を
断念した事がタイミング的に
妙に腑に落ちた。

点と点が繋がったように思えた。

僕は怒りのような悲しいような
複雑な感情になった
ただ、ただ事実を受け入れるしかなかった。

真偽を追求したところで認めないだろうし
今さら感もあったので、僕はそれ以上何も言わなかった。


続けて、元嫁が

「離婚後300日以内の子供はあなたの戸籍に
入ることになる」

「多分あなたの子供ではないのでDNA鑑定をしてほしい」

との事だった。

僕はなんで?
と思ったし、心のどこかでは
元嫁の事をまだ思っていた節があったと思う。
ショックはショックだった。

けど、元嫁と今後関わりたくない
とも思っていたので、

その事実に

もし、自分の子供だったら??
元嫁との関係性を考えても
産まれてくる子供に、僕は
会う事も難しいだろう。

会った事のない子供が
僕の戸籍に記載されるわけだから、
きっと僕はどこか、気になりながら
生きて行くことになるだろう。

そんな不安もよぎった

事実、逆算しても
僕の子供と言われても可能性が0%ではなかった。


不安もあるが事実を証明するしかなかった。
元嫁のDNA鑑定の要望を僕は承諾した。

夏を終え、秋が深なり始めた10月
、、、

、、、

、、、


元嫁からの電話からずっと
頭の中で、自分の子供だったら、、、
と不安がある日々を送っていた

そんなある日に
DNA鑑定会社から僕宛に
電話がかかってきた。

鑑定日の日程調整を行い

数日後、鑑定会社に
DNA採取しに行った。

時間は対して掛からなかった。

結果は後日郵送するとの事だった。

結果はすぐに郵送されてきた。

不安もありながら、結果を
確認した

・・・

・・・

親子ではない事が証明された。

この時は、心の底から

良かった、、、、

と思えた。


そのあとは家庭裁判所での
手続きが必要だった。

家庭裁判所での手続きは
僕と元嫁、別々の個室で
行われた。

事実を確認されながら、
僕は、今まであった事実を喋った。

時間でいえば1時間くらいだっただろう。

話しを終えて退席した廊下に
反対側でエレベーター待ちをしている
元嫁姿があった。

その姿はすぐにエレベーターに
消えていった。

これが元嫁をみた最後だった。

最後に


この年は、今振り返っても
本当に色々ありました。

たぶん、この先忘れる事のない1年で
何度も心が折れそうになった場面がありました

僕は本当に周りに恵まれていたと思う
家族、友人、会社のみんなの
手厚いサポートがあった。

そして何より
息子の存在が大きかった
息子のためでは無く
息子のおかげ。

暗闇に閉ざされたように真っ暗に
なりそうだった自分を
未来へと一歩踏み出す力をくれた。

かけがえのない存在がいたから
頑張れた。

ポジティブに乗り越えれた。

これからも、たくさんの事があると思う。
けど、少しづつかもしれないが
息子がいれば、僕は階段を登っていける。

もしかしたら、この記事を読んで
大した過去では無いと思う人がいるかもいれないし

同じように、今を
頑張ろうとしている人もいるかもしれない

僕の経験が
勇気づけれれるきっかけになればと執筆
しました。

最後まで、読んで頂き
ありがとうございました。



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